夏目漱石と明治国家1 『三四郎』(1)上京①「女」

 『三四郎』は、1908年(明治41)、漱石41歳の時の作品。「朝日新聞」に9月1日から12月29日にかけて連載された。漱石はこの前年に、東京帝国大学の教職を辞して朝日新聞社に入社。職業作家として小説の執筆を開始し、すでに『虞美人草』『坑夫』『夢十夜』などを連載していた。漱石は『三四郎』の連載にあたってこんな予告文を書いている。

「田舎の高等学校を卒業して東京の大学に這入った三四郎が新しい空気に触れる、さうして同輩だの先輩だの若い女だのに接触して色々に動いて来る、手間は此(この)空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自(おのずか)ら波瀾が出来るだらうと思ふ・・・」

 三四郎が遭遇する「波瀾」を理解するには、彼の出身をまず押さえておく必要がある。三四郎の出身は九州の田舎(福岡県京都[みやこ]郡真崎村)。熊本の第五高等学校を卒業し、これから合格した東京帝国大学(一部文科)に入学するため上京する列車の場面から物語は始まる。三四郎の、「波瀾」=驚き、戸惑いはこの上京の旅からすでに始まる。

「うとうととして目が覚めると女は何時(いつ)の間にか、隣の爺さんと話を始めている。」

 女は実家に戻る途中。その理由はこうだ。

「夫は呉にいて長らく海軍の職工をしていたが戦争中は旅順の方に行っていた。戦争が済んでからいったん帰って来た。まもなくあっちのほうが金がもうかるといって、また大連へ出かせぎに行った。はじめのうちは音信(たより)もあり、月々のものもちゃんちゃんと送ってきたからよかったが、この半年ばかり前から手紙も金もまるで来なくなってしまった。不実な性質(たち)ではないから、大丈夫だけれども、いつまでも遊んで食べているわけにはゆかないので、安否のわかるまではしかたがないから、里へ帰って待っているつもりだ。」

 日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日まで戦われ、ポーツマス条約により講和したのは1905年10月14日。『三四郎』の連載が始まるまだ3年前のことだ。随所に戦争の影響が描かれる。女の話に同情を催した爺さんは、自分の話をして女を慰める。

「自分の子も戦争中兵隊にとられて、とうとうあっちで死んでしまった。一体戦争はなんのためにするものだか解らない。後で景気でもよくなればだが、大事な子は殺される、物価(しょしき)は高くなる。こんな馬鹿げたものはない。世のいい時分に出稼ぎなどというものはなかった。みんな戦争のおかげだ。なにしろ信心が大切だ。生きて働いているに違いない。もう少し待っていればきっと帰って来る。――じいさんはこんな事を言って、しきりに女を慰めていた。」

 この二人と三四郎の間には圧倒的な階層差が横たわる。三四郎は二人の会話には入れない。エリート三四郎にとって、爺さんの言葉も女の言葉も異言語・異世界。だからただ聞くだけ、見ているだけ。爺さんは途中で降り、三四郎と女は終点の名古屋で降りる。女から同宿を頼まれても断れない三四郎。宿屋でも「この婦人が自分の連ではないと断るだけの勇気が出なかった。」風呂につかっていると「ちいと流しましょうか」と言われ、「いえ沢山です」と断ると、三四郎と一緒に湯を使う気と見えて帯を解きだす。女性の性的な誘惑は明らか。しかし三四郎は、虎穴には入らない。あわてて湯槽(ゆぶね)を飛び出す。部屋の一枚だけの蒲団も、自分でシーツをまいて蒲団の真ん中に仕切りを作って、女と触れ合わないようにして寝る。そして翌朝、改札場での別れの場面。

「(三四郎は)只一言、「さようなら」と云った。女はその顔をじっと眺めていた、が、やがて落ち着いた調子で、「あなたはよっぽど度胸のない方ですね」と云って、にやりと笑った。三四郎はプラット、フォームの上へ弾き出された様な心持がした。」

 三四郎はこの体験から何を学ぶのだろうか?

1906年39歳の頃の漱石 千駄木の家の書斎

夏目漱石『三四郎』新潮文庫

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