ゴヤとナポレオン14 戦争後のゴヤ(3)「俺はまだ学ぶぞ」
1823年5月、革命政権がフランス軍の力を借りた王党派によって倒されると、反動政府による弾圧を恐れたゴヤは、同年9月17日、「聾者の家」を孫のマリアーノに譲渡し、みずからは翌年の初めまで3か月ほど保守派のホセ・ドゥアーソ神父のもとに身を隠した。そして自由主義者に対する恩赦令が出たのち、1824年6月、彼は病気療養を口実に祖国スペインを捨てて、フランスへの亡命に旅立つ。
しかし、この「亡命」はいわゆる普通の亡命とはいささか異なっている。いかにもしたたかなゴヤらしい奇妙なものだった。恩赦令が出た翌日(5月2日)、ゴヤは宮廷に「医者にプロンビエールの鉱泉を飲むことを勧められた」ことを理由に6か月の休職願を提出する。プロンビエール(現:ベルギー)はフランス北東部にある有名な湯治場(1858年7月、イタリアの統一をめぐってフランスのナポレオン3世ととサルデーニャ王国のカブールの間で結ばれた「プロンビエールの密約」で有名な温泉地)。5月30日、国王から許可を得ると、ゴヤはただちにマドリッドを発ってフランスへ向かった。しかし彼が向かったのはプロンビエールではなくて、当時スペイン人亡命者たちのコロニーがあったボルドー。ここで、ナポレオンの没落とともにフランスに亡命していた劇作家のモラティンら旧友と再会。6月27日、モラティンは次のような手紙を書いている。
「ゴヤは確かに到着しました。聾で、年老いて、不器用で、体も弱っており、フランス語は一言も知らないのに、とにかく大満足で、世の中を知りたいという好奇心に満ち満ちています・・・」
3日滞在後、ゴヤはパリに向かう。友人で亡命者のホアキン・フェレールと版画の出版について協議するが成果は得られず、9月にボルドーに戻る。ボルドーには、妻ホセーファの死後、ゴヤの愛人となっていたレオカーディアとその娘ロサリートが来ていた。ゴヤは、「俺はまだ学ぶぞ」とばかりに、当時発明されたリトグラフに熱中し、4枚1組からなる版画集『ボルドーの闘牛』を制作した。
1825年1月に公休期間が切れる。なんとゴヤは、今度は「バニョールの鉱泉を飲みに行きたい」との理由で休暇の延長を願い出る。許可はすぐにおりた。その後、休暇はさらに1年延長。1826年、ゴヤは高齢(80歳)をおしてマドリッドに戻り、国王に宮廷画家の辞職を願い出る。当然この願いは認められるが、驚くのは今まで通り5万レアールの終身年棒を受け取っていること(これによって残された日々を比較的安穏にすごすことができた)。これがゴヤの「亡命」の実態。ゴヤがカルロス4世によって宮廷画家に任命されたのは1789年。それ以来、フランス革命に始まる激動の時代に彼は40年近くにわたって宮廷画家の職に就いていた。自由主義の理念に共感しつつ最もスペイン的な土着の魂を持った男。社会の進歩を期待しつつ人間の持つ恥部と暗黒面を見極めた男ゴヤは、したたかに宮廷画家であり続けた。
最晩年に至っても、ゴヤの創作意欲は衰えを知らなかった。友人たちの充実した肖像画以外にも新たな技法や実験を試み、つねに表現の可能性に挑んだ。老齢のため視力の衰えもあって、緻密な作業の銅版画に変えて、デッサンするように描ける石版画(油と水の反発を利用した平版技法。特殊な石板の上に油性インクやクレヨンで描いたデッサンが、化学的処置を施すだけでそのまま印刷される点が特徴)を、墨と筆よりも自由に描ける黒コンテを愛用するようになった。ゴヤの生涯の最後を飾る傑作が「ボルドーのミルク売り娘」。驢馬の背に揺られて毎朝ゴヤの家にミルクを届ける娘を描いたと言われる。死を目前にしたゴヤは、深い空の青、憂いを秘めた娘の端正な横顔に、女性的なものに対する崇拝の念、永遠の憧憬を託そうとしたのだろうか。もはや怒りや憎しみと言ったものは消え去り、画面は一抹の寂しさの中にも、それまでにない不思議な明るさをたたえている。人間の恥部・暗黒面を見続けてきたゴヤは、この静かで豊かな女性像の中に、人間の普遍的価値を見出したかのようだ。またショールや衣服に見られる「筆触分割法」は半世紀後の印象派の登場を予言している。
1828年4月18日、ゴヤはボルドーでその生涯を閉じる。享年82歳。臨終の床で「自分の手を見つめていた」(レオカディアの手紙)のが、美の革命家にして現代の予言者、ゴヤ生前の最期の姿であった。
ゴヤ「ボルドーのミルク売り娘」プラド美術館
ゴヤ「俺はまだ学ぶぞ」
ゴヤ「ボルドーの闘牛」
ゴヤ「自画像」メトロポリタン美術館
ヴィセンテ・ロペス・イ・ポルターニャ「フランシスコ・ゴヤの肖像画」プラド美術館
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