ゴヤとナポレオン12 戦争後のゴヤ(1)フェルナンド7世の帰国

 ゴヤは長く生きた。モーツァルト(1756―1891)、ナポレオン(1769―1821)、ベートーヴェン(1770―1827)のいずれよりも早く生まれ、そしていずれよりも遅くまで生きた。ロココの時代、革命の時代、ナポレオン戦争の時代、王政復古の時代を生きた。しかもスペインで。彼は生涯に何度も大病を患ったが、1792年(46歳)の重病では全く耳が聞こえなくなってしまった。しかしこの人生最大の危機を克服し、ゴヤは流行作家から、絵画史に残る「巨匠」へと変貌を遂げていく。

 1812年にはいると、ナポレオンはロシア遠征のために大陸軍を結集する必要から、スペインからも軍隊の一部を呼び戻す。ポルトガルに駐屯していたウェリントン率いるイギリス軍は、この機会を逃さずにスペイン領内に進軍。ホセ1世はマドリッドを逃れ、バリャドリーに宮廷を移して北部支配を立て直そうとするが、結局、1813年6月末にフランス国境に逃れ、スペイン国王を退く。1814年6月、フランス軍は最後の占領地カタルーニャからも撤退した。

 フランス支配下のスペインでは、1808年5月から6月にかけて抵抗組織として地方評議会(フンタ)が結成され、9月には最高機関として中央評議会が組織されアランフェスにおかれたが、その後セビーリャ、さらにカディスへと避難。1810年1月には解散を決定し、王国議会を招集。同年9月24日にはカディス(会場補給の有利さとイギリス軍の支援でフランス軍の占領を免れていた)で近代議会が開かれ、旧体制の廃棄と近代スペインの確立にとって重要な法令を次々と成立させる。1810年11月には出版の自由を定め、11年8月には領主裁判権を廃し、13年2月には異端審問制を廃止。1812年にはスペインで最初の自由主義憲法(「カディス憲法」 国民主権、三権分立、立憲君主制を規定)が公布され、自由主義者は反革命の動きに対する「希望の星」としたが、彼らは戦争下疲弊し、食糧危機で痛めつけられた民衆の声に耳を貸そうとはしなかった。各地の民衆は、フェルナンドを「期待された国王」とみなしてその帰国を待ち望んでいた。

 1814年3月末、このフェルナンドがスペインに戻る。彼はすぐさま首都には戻らず各地を巡行して「国王万歳!」「議会と憲法の打倒を!」といって声を集めながら絶対主義的反動を準備する。そして、5月5日にマドリッドに入城すると、ただちに自由主義者の弾圧に着手して、5月11日にはカディス憲法とカディス議会の行動を無効とする王令を公布する。専制君主による独裁、追放、粛清。時代は完全に逆行していた。自由主義政府に請願(「ヨーロッパの暴君に対する、我々の輝かしき反乱と崇高な英雄的行為を、絵筆によって永遠に残すために・・・)してゴヤが描いた傑作『5月2日』と『5月3日』は、あわてて王立サン・フェルナンド美術アカデミーに隠され、王が死ぬ1833年までそこで埃をかぶることになる。ゴヤはホベリャーノスやモラティンなど多くの友人と同じように、立憲君主制こそスペインの体制としてふさわしいと考えていた。そんなゴヤにとって、フェルナンドによる異端審問の復活、自由主義的な反対派の弾圧、自由主義憲法への即座無効宣言には大きな不安を覚えたことだろう。それが版画集『戦争の惨禍』の最期のグループ(No65~No80)の背景になっている。No69「虚無だ」(Nada)は、ほとんど真っ暗な、魑魅魍魎(ちみもうりょう)どもがよってたかっている画面に、下半身はすでに地に埋められてしまっている痩せ衰えた瀕死の人間が、骸骨よりももっと怖ろしい顔を見せ、最後の、あらん限りの力を振り絞って起き上がり、下半身を埋めている土の上におかれた石か板に、Nada(虚無だ)と書き記している。No78「見事な防戦だ」は、後ろ脚を蹴り上げた、まるで犬のような裸馬を中心に、9匹の飼い犬やら野良犬やオオカミが跳ね回っている図で、ゴヤはスペインの自由主義者たちを「見事な防戦をする」白馬になぞらえて描いているようだ。そしてNo78「真理は死んだ」。1814年5月のフェルディナンド7世の王令による自由主義憲法の無効宣言、自由の像の公衆の面前での焼却処分に触発されての表現であろう。ゴヤの長い人生は、この事件からさらに14年間、1828年まで続く。

『戦争の惨禍』No78「真理は死んだ」

『戦争の惨禍』No69「虚無だ」(Nada)

『戦争の惨禍』No78「見事な防戦だ」

ゴヤ「鰯の埋葬」王立サン・フェルナンド美術アカデミー

 1813年3月のフランス軍の撤退を茶化した作品とされる

ゴヤ「自画像」1815年 王立サン・フェルナンド美術アカデミー

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