ゴヤとナポレオン11 「半島戦争」(6)破滅の始まり

 ナポレオンにポルトガル、スペインの占領をナポレオンにけしかけたのはやがて彼を裏切ることになる外務大臣タレイランだった。タレイランは、ナポレオン王朝の将来のためヨーロッパにひとりでもブルボン家の王を残してはならないこと、イギリスに和平を強いるにはポルトガル、スペインの占領こそ決め手になることをナポレオンに進言した。しかしタレイランは、いかにも彼らしいのだがそんなことなど忘れたかのように『回顧録』でこんなことを述べている。

「今や不敗のナポレオンは存在せず、彼でも敗れることはあるし、どうしたら勝てるかを欧州に教えたのはスペインである。スペインのレジスタンスこそ自ら世界支配を志した男を破滅させた」

 前後7年にわたり、のべ36万人の兵力を投入し、戦死者4万人を数え、年に7千万フランの戦費を注ぎ込んだスペイン戦争は、ナポレオンにとりあまりに高くつきすぎた。スペイン干渉以前のナポレオンは「戦争が戦争を賄う」と豪語していた。それまでは年平均7億フラン(1806年~1814年)にのぼる巨額の軍事費を「軍特別会計」と「占領地特別会計」の二つで賄ってきたが、その財源には主に占領地からの挑発や賠償金を充てていた。しかし、スペイン・ゲリラの焦土戦術は、戦費は占領地からの搾取ではなく、自国で調達するものだという当たり前のことを教訓としてナポレオンに叩き込んだ。1812年の時点でジュネーヴの著述家フランシス・ディヴェルノワはこんな卓抜な指摘をしている。

「1809年までのナポレオンが勝利を重ねてゆけたのは、敗者から剥ぎ取ったもので次の敵を攻め、そこからまた剥ぎ取るといったやり方によるものだった。スペイン侵略を別にして、これまではいつも短期間に儲けの良い仕事ができたので、勝利によって戦費を賄ったあと、残金は特別会計に入り、その金で翌年の兵士の装備を整え、戦力を蓄えるという有り様であった・・・・。

 そしてスペイン戦争に兵力を投入したことで、ナポレオンは甚だしく出費のかさむ仕事に足をとられ、これまでのように戦のたびごとに2億5千万フランを懐にするという具合にはゆかなくなり、逆に巨額の金をつぎこまねばならぬ破目となった。今やナポレオンに勝つ唯一の戦法は焦土戦術であり、またフランス将兵たちの餌食になる前に、貴族の財産を破壊してしまうことだと悟ったのである」

 スペインの果敢な抵抗は全ヨーロッパを喜ばせた。特にロシアはゲリラ戦法の有効性を学び、ナポレオンのロシア遠征(1812年)にあたり、さっそく応用する。またプロイセンでは、シャルンホルスト、グナイゼナウらの軍事指導者を目ざめさせ、国軍再建の道に踏み出させた。さらに、スペイン本国の反抗はその広大な植民地にも波及した。メキシコ、アルゼンチンその他の中南米のスペイン植民地はスペイン国王ジョゼフ(ホセ1世 ナポレオンの兄)に反発して一斉に蹶起し、本国から離反。フランスの拠点であったブエノスアイレスも喪われた。ポルトガルのブラガンサ王家の亡命先のブラジルも反ナポレオンの気勢を上げる。ナポレオンがあれほど固執した大陸封鎖戦略は音を立てて瓦解する。イギリスには、ラテン・アメリカ諸国という新市場が拓かれ、息を吹き返した。まさに「スペインへの介入はフランス帝国の命運を危うくする大失敗だった」(ラス・カーズ)

 このようにナポレオンを破滅に導いたゲリラ戦術について、クラウゼヴィッツ『戦争論』はこう記している。

「国民戦はあたかも雲か霧のような存在であるから、ことさらに凝縮して固体となる必要はないのである。この霧がある地点では凝集して濃密な塊となり、恐ろし気な雷雲を形成することも必要である。そうすればこの雲の中からいつかはすさまじい電光が閃き出ることもあるだろう。

 スペイン国民は、なるほど個々の軍事行動において幾多の弱点と手抜かりを免れ得なかったにせよ、しかしその執拗な闘争において国民総武装と侵略者に対する叛乱と言う手段を用いれば、全体として絶大な能力を発揮しうることを実証した。」

 ナポレオンにポルトガル、スペインの占領をナポレオンにけしかけたのはやがて彼を裏切ることになる外務大臣タレイランだった。タレイランは、ナポレオン王朝の将来のためヨーロッパにひとりでもブルボン家の王を残してはならないこと、イギリスに和平を強いるにはポルトガル、スペインの占領こそ決め手になることをナポレオンに進言した。しかしタレイランは、いかにも彼らしいのだがそんなことなど忘れたかのように『回顧録』でこんなことを述べている。

「今や不敗のナポレオンは存在せず、彼でも敗れることはあるし、どうしたら勝てるかを欧州に教えたのはスペインである。スペインのレジスタンスこそ自ら世界支配を志した男を破滅させた」

 前後7年にわたり、のべ36万人の兵力を投入し、戦死者4万人を数え、年に7千万フランの戦費を注ぎ込んだスペイン戦争は、ナポレオンにとりあまりに高くつきすぎた。スペイン干渉以前のナポレオンは「戦争が戦争を賄う」と豪語していた。それまでは年平均7億フラン(1806年~1814年)にのぼる巨額の軍事費を「軍特別会計」と「占領地特別会計」の二つで賄ってきたが、その財源には主に占領地からの挑発や賠償金を充てていた。しかし、スペイン・ゲリラの焦土戦術は、戦費は占領地からの搾取ではなく、自国で調達するものだという当たり前のことを教訓としてナポレオンに叩き込んだ。1812年の時点でジュネーヴの著述家フランシス・ディヴェルノワはこんな卓抜な指摘をしている。

「1809年までのナポレオンが勝利を重ねてゆけたのは、敗者から剥ぎ取ったもので次の敵を攻め、そこからまた剥ぎ取るといったやり方によるものだった。スペイン侵略を別にして、これまではいつも短期間に儲けの良い仕事ができたので、勝利によって戦費を賄ったあと、残金は特別会計に入り、その金で翌年の兵士の装備を整え、戦力を蓄えるという有り様であった・・・・。

 そしてスペイン戦争に兵力を投入したことで、ナポレオンは甚だしく出費のかさむ仕事に足をとられ、これまでのように戦のたびごとに2億5千万フランを懐にするという具合にはゆかなくなり、逆に巨額の金をつぎこまねばならぬ破目となった。今やナポレオンに勝つ唯一の戦法は焦土戦術であり、またフランス将兵たちの餌食になる前に、貴族の財産を破壊してしまうことだと悟ったのである」

 スペインの果敢な抵抗は全ヨーロッパを喜ばせた。特にロシアはゲリラ戦法の有効性を学び、ナポレオンのロシア遠征(1812年)にあたり、さっそく応用する。またプロイセンでは、シャルンホルスト、グナイゼナウらの軍事指導者を目ざめさせ、国軍再建の道に踏み出させた。さらに、スペイン本国の反抗はその広大な植民地にも波及した。メキシコ、アルゼンチンその他の中南米のスペイン植民地はスペイン国王ジョゼフ(ホセ1世 ナポレオンの兄)に反発して一斉に蹶起し、本国から離反。フランスの拠点であったブエノスアイレスも喪われた。ポルトガルのブラガンサ王家の亡命先のブラジルも反ナポレオンの気勢を上げる。ナポレオンがあれほど固執した大陸封鎖戦略は音を立てて瓦解する。イギリスには、ラテン・アメリカ諸国という新市場が拓かれ、息を吹き返した。まさに「スペインへの介入はフランス帝国の命運を危うくする大失敗だった」(ラス・カーズ)

 このようにナポレオンを破滅に導いたゲリラ戦術について、クラウゼヴィッツ『戦争論』はこう記している。

「国民戦はあたかも雲か霧のような存在であるから、ことさらに凝縮して固体となる必要はないのである。この霧がある地点では凝集して濃密な塊となり、恐ろし気な雷雲を形成することも必要である。そうすればこの雲の中からいつかはすさまじい電光が閃き出ることもあるだろう。

 スペイン国民は、なるほど個々の軍事行動において幾多の弱点と手抜かりを免れ得なかったにせよ、しかしその執拗な闘争において国民総武装と侵略者に対する叛乱と言う手段を用いれば、全体として絶大な能力を発揮しうることを実証した。」

クラウゼヴィッツ『戦争論』

ピエール=ポール・プリュードン「タレイラン」ヴァランセ城

ゴヤ「戦争の惨禍」No37「これはもっとひどい」

ゴヤ「戦争の惨禍」No39「立派なお手柄!死人を相手に!」

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