ゴヤとナポレオン10 「半島戦争」(5)版画集『戦争の惨禍』
ゴヤの版画集『戦争の惨禍』(Los Desastres de la Guerra)は、半島戦争の最中である1810年から、フェルナンド7世が復位してマドリードに帰り、最悪の反動政治を開始する1814年頃までの間に作成された。老ゴヤはそのアトリエで、こつこつと、なるべく人には知られぬようにして、しかもなお情熱をこめて描き、かつ刻み続けた。そして公式に出版されたのは、ゴヤの死後35年も経た1863年のことである。ゴヤが隠れるように作成し、生前出版されなかったのはなぜか?それは、ゴヤが愛国心に燃えてフランス軍の残虐を告発しただけの版画集ではなかったからだ。
もちろんフランス軍の残虐さやそれに対するスペイン民衆の抵抗も描かれている。No2「理由あってのことなのか、それとも」は刺殺される民衆、No15「かくて救いはない」やNo26「見ていられない」は銃殺刑(一斉射撃による銃殺刑は、フランス軍の創意によるもの)、No19「もう時間がない」は集団強姦、No33「これ以上何ができるか」は性器切断を描いている。また、No3「これもまた」はフランス軍兵士にマサカリを振り上げて殺そうとしている百姓、No5「彼女らも猛獣のようだ」は赤ん坊を左手で小脇にかかえながら、右手で槍をフランス兵に突き刺す女性、No16「彼らは自分で補給する」はフランス兵の死者の衣服を剥ぐゲリラを描いている。
しかし、このような作品だけなら、ゴヤは異端審問所の眼を恐れ、こっそり制作する必要はなかっただろう。ゴヤは、スペイン民衆の残虐さだけでなく聖職者批判まで行っているのだ。マドリッドの市会議員だったペラレス侯爵は、かつてフランス軍のミュラ将軍を訪問したことがあったため「裏切り者」とされ、民衆は侯爵家へ押しかけ、侯爵と抵抗した家令を引出し、さんざんにいたぶった末なぶり殺しにしてしまう。No28「民衆」と No29「報いを受けるに値した」で足首を長い縄で縛られ、街路を引きずられる様子が描かれている。No61「家柄が違うのだろう」では、画面中央にうずくまった子供たちは、すでに立つ元気もなさそうであり、横になった一人はすでに息絶えている。真ん中で、とにかく身を立てて施しを乞うている男も、頭はすでに骸骨である。そして右側で談笑しているのは警官と身なりのいい紳士。多くの民衆が飢え死にしていく(マドリッドでは1811年10月から翌12年2月までに、2万人の市民が飢えと病で死亡)中でたらふく食べて談笑にふける警官と紳士を告発している。
No14「辛い段」も半島戦争の一面を浮き彫りにしている。狂ったように眼をらんらんと光らせ「吊るせ!吊るせ!」と喚きたてている司祭。階段を押し上げられる被処刑者。背景にはすでに吊るされた犠牲者がブランコのように左右に揺れている。これはスペイン人によるフランス人殺戮図。民衆蜂起が1808年5月2日のマドリッドにつづいて全国に及んだ時、バレンシアで「食肉獣」と仇名された狂信的修道士カルボが煽動して、フランス人在住者380人を殺害したが、そのときの処刑図と解されている。No43「これもまた」は、人々を救い慰めるべき修道士が、われ先に逃げ出す様子、No71「公共の福祉に反して」では、聖職者が、手足には鋭いけだものの爪を生やし、耳にあたるところには蝙蝠の羽を生やした姿で描かれている。彼は大きな帳面を膝の上で開き何かを書きつけているが、民衆は両手を挙げて大迷惑の表情である。
特に問題とされたのはNo77「綱が切れるぞ」。下から見上げている民衆を尻目に、何か所も結び目やら、別のひもなどでつくろったところのある綱の上で綱渡りをしている人物はいったい誰か。高位聖職者らしい服装はしているが、長いあいだそれは論議の種であったが、この版画のためのデッサンが公開されるまで誰とも特定できなかった。プラド美術館も、なかなかこの原デッサンを公表しなかった。なぜか。デッサンでは、この危なっかしい綱渡りをしている聖職者は三重冠を頂いていたのだ。三重冠をかぶれる人物はただ一人。ローマ教皇である。つまりこの綱渡りの男は、時の教皇ピウス7世だったのだ。恐るべきゴヤの反教会主義。ところでこのピウス7世(在位:1800年~1823年)は、ナポレオンの戴冠式でパリに呼びつけられ、祝福を与えた人物。その後、ナポレオンによって幽閉されたが、ナポレオン失脚後には、18世紀末に追放されたイエズス会を復活させ、スペイン異端審問所の再会も認可した教皇である。
「理由あってのことなのか、それとも」
No15「かくて救いはない」
No26「見ていられない」
No19「もう時間がない」
「これ以上何ができるか」
No3「これもまた」
No5「彼女らも猛獣のようだ」
No16「彼らは自分で補給する」
No28「民衆」
No29「報いを受けるに値した」
No61「家柄が違うのだろう」
No14「辛い段」
No43「これもまた」
No71「公共の福祉に反して」
No77「綱が切れるぞ」
ダヴィッド「ナポレオンの戴冠式」ルーヴル美術館
ナポレオンの後ろで、座ったまま祝福を与えているのがピウス7世
ダヴィッド「ピウス7世」ルーヴル美術館
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