ゴヤとナポレオン9 「半島戦争」(4)地獄絵図
イベリア半島を舞台にした文字通り血で血を洗う死闘は実に5年間も続く。それは通常の戦闘の概念では説明しきれるものではなく、敵味方ともに精神に錯乱をきたし、ひたすら憎悪と復讐の念にかられて、サディスティックな殺人に耽ると言った、地獄絵図が展開された。
まずフランス軍の行状から。彼らは行く先々の町や村の攻略で掠奪暴行の限りを尽くした。ゲリラ相手に、正規軍相手には許されぬ蛮行を働いた。高価な家具、額縁、祭壇、聖像を火にくべて暖をとり、墓石を細工して粉ひき臼に用いた。修道院に押し入っては多数の尼僧を凌辱し、殺害した。アラゴン州の州都サラゴーサでの1808年から1809年にかけて2度にわたる攻囲戦では、守るスペイン側は28歳の領主パラフォックス公の指揮で、52日間に及ぶ死闘を繰り広げた。ついに町は落城し、スペイン兵2万、市民3万が犠牲となる。フランス軍は捕虜にした市民を遠くフランスまで歩かせ、土木工事に使役し、衣食も満足に与えず、病院での死亡率は98パーセントにも達したと言われる。ところで、現在のサラゴーサ市の紋章には「MN,ML,MH,MB,SH,I」の文字が描かれている。これは「Muy Noble, Muy Leal, Muy Heroica, Muy Benéfica, Siempre Heroica e Inmortal」(「非常に高貴、王家に忠実、英雄的、敬虔なる、常に英雄的かつ永久不滅」)の頭文字で、フランスによる包囲を耐え抜いたサラゴサ住民に対して贈られた称号である。
また、古代ローマ遺跡の残るタラゴーナでは、スペイン軍を破ったスウシェ将軍は部下に自由な掠奪を許した(1812年6月)。放たれた狂犬さながらの兵士たちは、剣を振り、槍を突き、4千の市民を細切れにして全滅させた。砲兵将軍だったデュブレトンはこう語っている。
「われわれはこの国のすべてを敵に回してしまった。軍は長らく補給を受けておらず、食料の配分に預かったことがない。軍規は全く尊重されず、あまりにも長びいた戦さで道徳は地に墜ち、掠奪が横行する。正直なところ、私は自分を恥ずかしく思う。このスペインの地で、フランス軍の軍服はけがれてしまった。
では、スペイン側の行状はどうだったか。まずフランス軍の薬剤師カステル・ブラーセの証言。
「ヴォージュ出身の経理官と、パルマント出身の私の友人は二枚の板の間に挟まれ、鋸引きにされた。ルネ旅団長は怒り狂う百姓どもに捕えられ、生きながら煮え湯の鍋の中に放り込まれた。」
次は、フランス軍兵士シャントレーヌの証言。
「セゴーヴィアからマドリッドへの道中で、フランス兵9人が扼殺されているのを目にしたが、その一人は陰部を切られて口にくわえ、他の一人は目玉をくり抜かれ、左手の指を五本とも切り落とされ、右手に陰部をぶら下げていた。」
ただしこの後に続けてこう言っている。
「お返しにこちらも奴らを捕えて銃殺にし、うじ虫の湧くまで木に吊るしておく」
イギリス軍にしても、ひとり模範的だったわけではない。ヴィラ・フランカの町を廃墟にしたり、サラマンカ、ヴィトーリアでも蛮行を働いた。
「1812年4月、ウェリントン軍はバダホースを奪還したが、スペイン人たちはフランス軍の地獄から抜け出て、イギリス軍の地獄に放り込まれた。酔っぱらったイギリス兵は48時間にわたって町を荒らし、門を壊し、老人を絞め殺し、女を凌辱し、子どもたちを銃剣で刺殺した」
死者5千。それはスペイン・ゲリラやフランス軍にも劣らぬ蛮行であり、ウェリントン自身も部下に脅迫されて制止がきかなかった。
半島戦争の経過は錯綜を極めている。それは、フランス軍、スペイン軍、イギリス軍とゲリラという4つの虐殺集団の追いかけごっこ、寄せては返す陣取り合戦、処刑と報復の果てしない連鎖だった。そこでは人間の狂気と獣性、その野放図な狂乱ぶりがくりひろげられた。
ゴヤ『戦争の惨禍』No5 「彼女らも猛獣のようだ」 フランス兵と闘うスペイン女性たち
ゴヤ『戦争の惨禍』No7 「何と勇ましい!」
サラゴーサ包囲戦で活躍したマリア・アグスティーナ
フェルナンド・ブランビラ「サラゴーサ包囲戦でのアグスティーナ」
ルジェンヌ「サラゴサの包囲 サンタ・エングラシア修道院の襲撃」ヴェルサイユ宮殿
サラゴーサ市紋章
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