ゴヤとナポレオン8 「半島戦争」(3)泥沼化

 翌5月3日、反乱はミュラ将軍率いるフランス軍によって鎮圧された。反乱者は市街の各所で銃殺刑に処せられ、その数は数百人に及んだ。6年後、ゴヤは「5月2日」、「5月3日」を描き、この事件を後世に伝えた。

 反乱の鎮圧後、ナポレオンもミュラ将軍も、抵抗はこれで収まり、スペインを平和裡に領有することができるものと思っていた。7月20日、ナポレオンは兄のジョセフをホセ1世として王位に就け、バイヨンヌを発ってパリに戻った。しかし、ナポレオンの計算は狂う。スペインはフランス軍の横暴に怒った。新国王の支持者は「フランスかぶれ」と呼ばれた一部のものに過ぎない。6月、セビリアの評議会(フンタ)がフランスに宣戦布告。そして7月22日、バイレーンでデュポン将軍率いるフランス軍がスペイン軍に包囲されて、大陸軍初の敗北を喫する。しかも屈辱的な降伏。ナポレオンはそのショックの大きさをこう表現した。

「軍隊が不名誉な降伏を甘受したとなると、わが軍の栄光に、けっしてぬぐい去ることのできぬ汚点を残すことになる。名誉に加えられた傷は治らない。この破局の精神的影響は恐ろしい。」

 7月30日、ウェリントン率いるイギリス軍がポルトガルに上陸。8月13日、スペイン軍がマドリッド入城。そして8月30日、ジュノ―将軍率いるフランス軍がシントラでイギリス軍に降伏。この相次ぐ致命的、かつ屈辱的な敗北でナポレオンの威光は消え失せ、無敵大陸軍の威風は地を払った。イベリア半島での情勢はにわかに緊迫し、ジョゼフ(ホセ1世)は首都から逃れ出る始末となった。

 ナポレオンの反応は敏速だった。9月27日、エルフルト会談を開き、ロシアと同盟の圧力でオーストリアの後方攪乱を封じておいたうえで、反転して6個軍団16万8千の精鋭を自ら率いて出動。12月4日にはマドリッドを再占領し、ジョゼフを王位に戻し(1809年1月22日)、急遽スペインを発ってパリに戻る。パリの側近の陰謀、それに連動したオーストリアの軍事行動を察知したからだ。しかし、この時点からスペイン全土にわたり血まみれの修羅場を現出することになる。そもそもナポレオンの戦争は、敵地で敵の主力軍と会戦を行ってこれを粉砕し、直ちに講和を結ぶ点に特色があった。つまり短期決戦。しかしスペインは勝手が違った。フランス軍は、スペイン、イギリスの正規軍のほかに、都市住民や農民、司祭、修道士などの武装民衆と戦わねばならなかった。神出鬼没、奇襲を得意とするゲリラ戦にスペイン戦争の特色があった。フランス軍は「スペインの雀蜂の群れ」と呼んで恐れた。そもそも「ゲリラ」とはスペイン語Guerilla「ゲリーリア」の英語読みである。

 スペイン民衆の頑強な抵抗の背景には、「ナポレオンは革命の男だ。そして宗教を否定する革命はサタンのつくったものであり、したがってナポレオンはサタンの申し子である。」とするカトリック教会の強力な支援があった。彼らは、こんな『教理問答』を流布させていた。

「おまえの敵はだれか?」      「ナポレオンです 」

「そいつはどこから生まれたのか?」 「罪から生まれました 」

「フランス人とは何者か?」     「まえはキリスト教徒でしたが、異端になった連中です」

「フランス人を殺すのは罪か?」   「いいえ、そうすれば天国にゆけるのです」

 ゴヤの『1808年5月3日、マドリッド プリンシペ・ピオの丘での銃殺』を見てみよう。ここでは、女性や子供を含む43名画銃殺されたが、ゴヤは画面右側にフランス兵をロボットと化した殺人集団として配した。そして左側に、名もなきスペイン民衆を、処刑を待つ人々、処刑される人々、処刑された人々(死体)の三グループに分けて描いた。中心にいる両腕をかかげた白シャツの男は、手のひらに聖痕が認められ、キリストの磔刑を連想させる。反教会的なナポレオンの支配と戦う聖戦の殉教者の姿だ。そして見落とされがちだが、背後の暗闇にはカトリック教会が不気味な姿で浮かび上がっている。

ホセ・カサード・デル・アリサール「バイレンの投降」プラド美術館

デュポン将軍

ゴヤ「1808年5月3日」プラド美術館

1808年5月2日、マドリッドのクチレロスの通り

「5月2日の英雄像」 スペイン広場 マドリッド

「5月2日オベリスク」レアルタード広場 マドリッド

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