ゴヤとナポレオン7 「半島戦争」(2)「5月2日」(Dos de Mayo ドス・デ・マヨ)


 ナポレオンには、罠にかけたとか、陰謀を謀ったという意識はなかっただろうが、「ナポラドロン

Napoladron」(ladron=泥棒)という語が広まっていく。カルロス4世がスペイン王位の委譲を承認したのは5月10日、フェルナンドが退位を承認したのは5月10日。もし、5月2日、3日のマドリッドの民衆反乱がなかったならば、二人は王位の委譲も、退位もすることはなかったであろう。二人はこの民衆の反乱に脅えおののいた。この反乱は、フランス軍の進駐とバイヨンヌの「陰謀」に向けられた怒りの爆発だった。その経過はこうだ。

3月18日のアランフェス離宮での皇太子フェルナンドの反乱によって、カルロス4世は息子に譲位し、フェルナンド7世が誕生。それを知ったミュラ将軍は、首都の治安を気遣い3月23日、マドリッド入りを独断で決意。スペイン参謀本部の了解も得ていた。マドリッド市民もこれを歓迎。市民はアランフェスでの事件(ゴドイの失脚・拘束、国王の退位、新王即位)がフランス軍との完全な了解の上で起こされたものであると信じて疑わなかったからである。3月24日には新王フェルナンド7世もマドリッド入城。市民は熱烈にこの新王を歓迎した。マドリッド入りしたフェルナンドの最初の布令はゴドイの全財産の没収。そして第二の布令は、ゴドイのアランフェスからマドリッドへの連行(大八車に縛り付けて護送)。しかしそれが実施されれば、ゴドイは途中で民衆になぶり殺されるのは必至。アランフェス離宮に取り残された、前王と前王妃はナポレオンとミュラ将軍にせっせと手紙を書く。3月22日から4月10日までの20日間になんと26通も。王はその手紙の中で譲位宣言を取り消す。また、息子フェルナンドの悪口雑言とともに、ゴドイの救出を懇願する。ミュラはゴドイがマドリッドに入ることを禁止せよとマドリッド政府に要請。ゴドイは大八車に縛り付けられてマドリッドへの道を半分来たところで、ピントオという村で監禁されるが、その村をフランス軍が占領。ゴドイが武力で釈放されるのではないかと恐れたフェルナンドは、マドリッドの西18キロのところにあるビリャビシオーサ村に移す。スペイン民衆にとって、ゴドイを罰するために入ってきてくれたと信じていたフランス軍がそうではないことがはっきりし始める。マドリッドでもフランス軍との間にこぜり合いやら流血の剣か騒ぎがしきりに起こるようになる。ミュラはフェルナンドをこれ以上マドリッドにおいておくことは危険と判断し、フランス領のバイヨンヌまで行って皇帝に会うように、と圧力をかける。ナポレオンは、4月13日、近時のスペインの最高位の統治者全員にバイヨンヌへの招集を命じる。そのなかに、ゴドイも含まれていた。ゴドイは釈放されたのだ。このことはたちまち首都じゅうに知られ、民衆の怒りは圧力を増して陰にこもっていく。

 4月30日、ミュラはバイヨンヌのカルロス4世から一通の手紙を受け取る。それには、まだマドリッドに残っている末っ子のアントニオ親王を大至急バイヨンヌへ寄越してもらいたい、としるしてあった。出発は二日後の5月2日と決定される。5月2日朝、親王をバイヨンヌにお連れする馬車のまわりを群集がありかこむ。アントニオ親王について出てきた召使たちが群集の中へ入っていって、「殿下は行きたくないと言って泣いておられる」と小声で言いふらす。これは扇動だ。14歳の親王が。陰謀渦巻くマドリッド王宮に一人で居残りたい理由などあるわけがない。召使たちが「力づくでも親王を取り戻そう」と言ったとき、ミュラが派遣していた副官は殴りかかられ、馬から引きづり降ろされた。副官を助けようとした従者ともども殴られ蹴られて地面に倒れるが、騒ぎを知ったフランス軍の哨兵に助け出され、ミュラ将軍の宿舎に飛び込んで事態を報告。怒りに狂ったミュラは、ナポレオンの厳重な訓戒(ミュラ将軍宛の3月29日付指令 この中でナポレオンは「いかなる側面においても、導火線に火をつけてはならぬ。もし戦争に火がついたら、一切は失われる」と言っている)を忘れてしまった。宮殿前広場へ、擲弾兵一大隊、ポーランド人猟歩兵一中隊、大砲二門を派遣。軍隊の姿を見て群衆はたじろぎ、逃げ出す。午後4時ごろまで続いた小競り合いで7人の死者。しかし事はそれで終わらない。ミュラは導火線に火をつけてしまった。

ゴヤ「1808年5月2日 マドリッド エジプト人親衛隊との戦い」プラド美術館

フランソワ・ジェラール「ユサール騎兵大佐の軍服を着たミュラ」ヴェルサイユ宮殿

アランフェス王宮

ゴヤ「ゴヤ自画像 20代後半」サラゴサ カモン・アスナール美術館

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