ゴヤとナポレオン6 「半島戦争」(1)「バイヨンヌの罠」

 1808年から1814年まで続いたスペインとの戦争(スペインでは「独立戦争」、イギリスでは「半島戦争」と呼ぶ)について、後にナポレオンはこう述べている。

   「スペインの潰瘍が私を破壊に追い込んだ」

   「スペインでの不運な戦いは、私のあらゆる不幸の最初の原因であった」

 ナポレオンは、「長いあいだスペイン支配を夢見ていた」が、スペイン戦争の敗北によって破滅への道を歩み始めたのだ。当時のスペインでは、政治の実権は国王カルロス4世にはなく、王妃マリア・ルイサとその愛人である宰相ゴドイの手に委ねられていた。カルロス4世はナポレオンにスペイン王国統治法についてこう語った。

「毎朝、天候がどうであろうが、冬でも夏でも、私は朝飯を食べてからベッドを出て、ミサを聞き、それから午後1時まで狩猟に行きます。昼食後、もう一ぺん猟場に戻って日の暮れまで鉄砲撃ちです。夜になると、マヌエル(ゴドイ)がやって来て、政務がうまくいっているかどうかを告げてくれます。それから床に入って、朝になれば、また狩りに行きます。何か重要な儀典でもあって王宮にとどまっていなければならぬ日は別ですが・・・・・。」

 これに対抗し、政権を奪取する機会をうかがっていたのが、国王の長男フェルナンドとその一派。1807年10月、政府内のリベラルな改革派がカルロス4世らを追放し、フェルナンドを新王に就けようとしたが、この陰謀は事前に発覚。フェルナンドは共犯者として逮捕されるとあっさり改革派を裏切り釈放される。こうしたスペイン王家の争いを知ったナポレオンは、この機会を利用してスペインをフランスの支配下に置こうと考える。すでに、スペイン北部にはフランス軍が駐屯していたし、スペインの隣国ポルトガルはフランスの支配下にあった。これは、ナポレオンの「大陸封鎖」が関わっている。どういうことか。

 フランスにとっての主要な敵イギリスを叩くためナポレオンが計画したイギリス上陸作戦は、1805年10月21日のトラファルガー沖の会戦の敗北で完全に消え去った。制海権をイギリスに奪われたまま、イギリスの戦力の根源にダメージを与えるため、イギリス商品をヨーロッパ市場から閉め出そうとナポレオンがとったのが「陸による海の征服」すなわち「大陸封鎖」だった。しかし、イギリスへの経済的従属が強いポルトガルは、そのすべての港をイギリスに使用させないよう要求するナポレオンに従わない。ナポレオンはポルトガルにジュノ―軍団を派遣するが、それには部隊4万の通過と後方支援勢力8万2千のスペイン領内駐留を承諾させる必要がある。そこから、ナポレオンはスペイン宮廷の内紛に巻き込まざるを得なくなる。ジュノ―軍は、11月には首都リスボンを占領。ポルトガルはフランス軍の支配下におかれた。

 1807年12月、フランス軍はスペインに進軍。ゴドイの圧政に苦しんでいたスペイン民衆には、ナポレオンが救世主のように見えたのだろう、歓呼の声で迎えられる。3月18日にアランフェス離宮で皇太子フェルナンドが反乱を起こす。ゴドイはフランスに逃亡。カルロス4世は息子に譲位することを決意し、フェルナンド7世が誕生する。しかしナポレオンは新国王の即位を認めず、ミュラ将軍をマドリッドに送り込む。ところがマドリッド市民の激しい抵抗にあったため、カルロス4世とフェルナンド7世をスペイン国境に近い南西フランスの都市バイヨンヌに呼び寄せ、暴動の責任を追及したあげくに両者の王位を剥奪した。その手口は「バイヨンヌの奸計」と呼ばれる巧妙狡猾なものだった。国王派と皇太子派の調停者を装い、自分が王冠を預かるという形で王位を手にしたのだ(1808年4月14日)。国王夫妻とゴドイはフォンテーヌブロー城に亡命、皇太子一派もタレイランの所有するヴァランセイ城(グルノーブル近郊)に幽閉となり、それぞれ年金600万フランと100万フランを与えられて沈黙。それは陰謀好きのタレイランでさえ、「王冠は奪取することはあっても、詐取してはいけない」と顔をしかめたほどだった。

カルロス4世に王位委譲を求めるナポレオン

アランフェス暴動

ゴヤ「王衣をまとったフェルナンド7世」プラド美術館

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