ゴヤとナポレオン5 ゴヤ(2)「カルロス4世の家族」

 ゴヤに強く惹かれる理由の一つが、彼のしたたかで優れた現実感覚。終生失われることのなかったこのセンスによって、ゴヤは一方で権力者を痛烈に諷刺(例えば『ロス・カプリチョス』)しつつ、出世の階段を昇りつめていったのだ。

1780年、「十字架上のキリスト」を提出し、全員一致でアカデミー会員に迎えられ、画家としての権威を確立。徐々にマドリッド貴族社会に顧客を得ていき、1783年には宰相フロリダブランカ伯爵とドン・ルイス親王の家族の肖像を描き、上流社会への扉が開かれる。1785年3月には、はやくもアカデミーの絵画部長に就任し、同年、当時最も有力な貴族のひとつであるオスーナ公爵家の知遇を得て、のちに家族の肖像を描いた。ゴヤはマドリッド上流階級の中で売れっ子の肖像画家の地位を不動のものとする。1786年「王付き画家」に昇進したゴヤは、カルロス3世の狩猟服姿の肖像を描いたが、1789年1月、カルロス4世の即位に合わせて念願の宮廷画家に任命される。そして1799年10月、ついにゴヤはカルロス4世の首席宮廷画家に任命される。この時、ゴヤ53歳。当時、その任命権を事実上有していたのは王妃マリア・ルイサ。この年、ゴヤが描いた「マンティーリャ姿の王妃マリア・ルイサ」の評判が良かったのか、エル・エスコリアル宮殿で描いた国王夫妻の騎馬像が気に入られたのか、王妃はゴヤの描く自分の姿にいたく御満悦の様子だった。「王付き画家」となった13年前の3倍以上の収入を得ることとなり、ゴヤは公式の画家の頂点を極める。

そして1800年の春、ゴヤは首席宮廷画家として王家から最大の注文を受ける。「カルロス4世の家族」である。マドリッドと離宮アランフェスを4度も往復しつつ、1年以上かけて(下絵を10枚も描いている)描き上げたゴヤ畢生の超大作(2.80m×3.36m)である。それは崩壊してゆくスペイン・ブルボン王家最後の晴れ姿ともなった。53歳になる国王は、華麗な衣装に身を包んでいるが、遠からずその統治は終わりを迎える運命にあった。そしてイタリアでの11年に及ぶ亡命生活の後、1819年にこの世を去る。この集団の中でもっとも恐るべき人物は、当時50歳の王妃マリア・ルイサ。彼女は金色と群青色の斑模様入りのドレスを身につけ、その艶めかしい両腕を最年少の二人の子どもたち、とりわけ幼いフランシスコ・デ・パウラ・アントニオ親王の方に差し出している。この王子は1794年に生まれたが、折しもそれは宮廷内の外交官グループの中で、王妃がマヌエル・ゴドイと姦通しているとの噂が広まっていたときのことであった。確かによく眺めると、この子だけがブルボン家に特有の諸特徴から遠く離れている。左から2番目が当時17歳だった皇太子、後のフェルナンド7世。8年後に、アランフェス離宮で父に対して謀叛を起こしてフェルナンド7世を名乗り、父母とゴドイともどもにナポレオンにバイヨンヌまで呼びつけられる。そこで母のマリア・ルイサに、ナポレオンの面前で、「この私生児めが!」と怒鳴りつけられるのであるが、誰を父とする私生児なのかはわからない。彼は対仏戦争後、即位して恐怖の専制政治を復活させ、近代スペイン市場最悪の国王の一人となる。フェルナンドの右側に、完全にそっぽを向いている女性について、2年後に皇太子の嫁に来るはずのナポリ女王の娘マリア・アントニアとする説があるが、彼女はマドリッドに来てナポリの母親に宛てて夫についてこんな手紙を書く。

「夫は鈍感で、何もせず、嘘つきで、卑しく、腹黒く、肉体的にも男じゃありません。18歳にもなって・・・。この皇太子は何もしません。読まず、書かず、考えず、要するに無です。」

 この作品は、王族の醜さと愚かさをあまりにも写実的に描いている(描かれた人物の数も不吉な「13」人)ため、ゴヤに批判的な意図があったと思われがちだが、マリア・ルイサは、この絵は自分たちを実物通りに描いていると大いに満足しているし、国王も出納係に画材費として大金をゴヤに支払うことを認めた。しかし、嘘をつけないゴヤの透視力はおよそ王族に似つかわしくない彼らの素顔や内面までを図らずも暴き出してしまった。

ゴヤ「カルロス4世の家族」プラド美術館

ゴヤ「十字架上のキリスト」プラド美術館

ゴヤ「宰相フロリダブランカ伯爵とゴヤ」マドリッド スペイン銀行

ゴヤ「ルイス・デ・ブルボン親王一家」パルマ マニャーニ・ロッカ財団

ゴヤ「オスーナ公爵夫妻と子どもたち」プラド美術館

ゴヤ「狩猟服姿のカルロス3世」個人蔵

ゴヤ「カルロス4世騎馬像」プラド美術館

ゴヤ「王妃マリア・ルイサ騎馬像」プラド美術館

ゴヤ「マンティーリャ姿の王妃マリア。ルイサ」マドリッド王宮

ゴヤ「自画像 1800年頃」バイヨンヌ ボナ美術館

0コメント

  • 1000 / 1000