ゴヤとナポレオン4 ゴヤ(1)「裸のマハ」
裸体画は古代ギリシャ以来現代にいたるまで、キリスト教的中世を除けば、パトロンにも美術家にも興趣の要であり、とくにルネサンスやバロックの時代、ヴィーナスやダナエといった神話物語を口実として数限りないタイプのヌード表現が追い求められた。しかし、スペインでは事情が違った。スペインでは19世紀まで、裸婦像は公的空間から排除されていた。カトリック信仰の論理と異端審問の掟があったからだ。スペインの啓蒙専制君主と呼ばれ、イエズス会士を追放し異端審問所の権限縮小をはかったカルロス3世や続くカルロス4世も、今でこそ至宝とされるティツィアーノやルーベンスを、「卑猥な絵は集めて焼却せよ」との命を下したほどだ。対象となったのは、現在プラド美術館にあるティツィアーノの「ヴィーナスとオルガン奏者」、「ダナエ」、「ヴィーナスとアドニス」、ルーベンスの「パリスの審判」など。これらの作品をわれわれが目にすることができるのは、焼却の対象にされた約20点の作品が、サンタ・クルース侯爵の計らいで王宮から王立サン・フェルナンド美術アカデミーに移管され、難を逃れたからだ。しかし、プラド美術館に運ばれた後の19世紀後半でも、多くの神話的裸体画は一般観客の目から離され、同館1階南隅の「特別室」にこっそり並べられていた。
スペインでは神話的裸体画ですらこのような扱いだった。しかし「裸のマハ」は神話のヴィーナスではありえない。「マハ」とは粋な下町娘(彼女らは、この地方独特の歯切れの良い発音と言い回しで、若い男と戯れ、時には自由奔放な生活を楽しんだ)のことであり、後から同じ女性のほぼ同じポーズの「着衣のマハ」が描かれているから、描かれているのは明らかに現世の生身の若い女性だ。この作品が描かれたとされるのは1797年~1800年。それがどれほど驚くべきだったかは、これより60年以上後の1863年に描かれサロン(官展)に出品されたエドゥアール・マネの「草上の昼食」を思い起こせばわかりやすい。この作品は、「現実の裸体の女性」を描いたことが「不道徳」とされ落選。その後、同サロンに落選した作品を集めた落選展にも展示されたが、同様の理由で批評家たちに批判されスキャンダルを巻き起こしたのだ。ゴヤの「裸のマハ」は、はるかに刺激的。西洋絵画史上初めて陰毛を描いただけではない。身体を画面右上から左下へ対角線上に配し、両手を頭の後ろにまわさせて見る側の意識を肉体の各秘部に集中させる。
「裸体画史上、かくもエロスと蠱惑(こわく)美を発散させるヌードは例を見ない。・・・両手を頭の後ろに組むことで全裸身が光りにさらされ、肉体は、挑むその視線に劣らず見る者を誘惑する。臍が、豊かな胸と陰阜(いんぶ 陰毛)のほぼ中間、画面の両対角線の交差部にある。髪が解かれ、化粧も少し落ちている。・・・その姿は女体そのもの、性そのもののイコンと化している。」(大髙保二郎『西洋絵画の巨匠⑩ゴヤ』)
なぜ、こんな作品をゴヤは描くことが可能だったのか?それの理由は、時の権力者マヌエル・ゴドイと関わる。1792年、わずか25歳で宰相の地位にのし上がったゴドイは、1808年に失脚するが、そのときベラスケスの「鏡を見るヴィーナス」とともに「裸のマハ」、「着衣のマハ」が発見された(彼は1000点以上の絵画を誇る、当時屈指の美術コレクターだった)。ゴドイはこの作品を自分の館の居間に飾り、美術好きの訪問者を楽しませていたようだ。「裸のマハ」はゴドイの依頼で描かれた。絶大なパトロネージを誇る宰相ゴドイの庇護という特殊な環境のもとで初めて過激ともいえる「裸のマハ」は誕生することができたのだ。
モデルは、かつてはアルバ女公爵カイェターナだとなかば伝説化して語られた(王妃が手紙の中で、カイェターナとゴドイの親密な関係をほのめかしている。ゴドイが所有していたベラスケス「鏡を見るヴィーナス」もかつてアルバ公爵家が所有しており、カイェターナがゴドイにプレゼントした可能性もある)が確かな根拠はないし、肖像画に見る彼女の顔はマハとはまるで別人。アルバ公爵家はこの醜聞を否定するために、彼女の墓を暴いて別人であることを立証しようとしたほどである。近年は、ゴドイの愛人だったペピータ・トゥドー説が有力である。いずれにせよ、この絵が没収されてから7年後の1815年、ゴヤはこの猥褻な絵を異端審問所によって問題視される。「いかなる動機で、誰の注文で、何を意図して描いたか」を明らかにするように告訴されたのだ。しかし、その結末は知られていない。
ゴヤ「着衣のマハ」プラド美術館
ゴヤ「裸のマハ」プラド美術館
ティツィアーノ「ヴィーナスとオルガン奏者」プラド美術館
ティツィアーノ「ダナエ」プラド美術館
ティツィアーノ「ヴィーナスとアドニス」プラド美術館
ルーベンス「パリスの審判」プラド美術館
ベラスケス「鏡のヴィーナス」ロンドン・ナショナル・ギャラリー
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