ゴヤとナポレオン3 スペインとフランス(3)カルロス4世とフランス革命

 カルロス3世が実施したさまざまな啓蒙主義的改革も、フランス革命の勃発によって頓挫してしまう。フランス革命の前年の1788年、カルロス3世のあとを継いでスペイン国王に就任したのはカルロス4世。フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世の従弟にあたる。気弱で人を疑うことを知らないお人好しの反面、凡庸かつ傲慢、午前5時より遅く起床したことはなく、水以外の飲み物は口にせず、時計の修理と狩猟と闘牛だけを気晴らしとする無益、無害な人物。こんな夫には、気が強く、現実主義的で、自己中心的な女性が妻となっているものだが、王妃マリア・ルイサも例外ではない。それどころか彼女には、病気ともいえる男狂いと果てしなき権力欲が備わっていた。フランスのある外交官は「50歳という年齢なのに、王妃は自惚れが強く、若くて美しい女性にしか許されない媚態をします」と評し、両角良彦は名著「反ナポレオン考」の中でよりストレートにこう表現している。

「優雅で情熱的な『魅力ある醜さ』の持ち主、『スカートの下に爆弾を抱え』、多くの愛人を持つ色情狂」

 国王になったカルロス4世が、弱冠25歳の一介の近衛兵士であるヌエル・ゴドイを宰相に抜擢したのは、彼と愛人関係にあった王妃の強い薦めによる。驚くことに、国王は王妃の貞淑を露ほども疑わなかったとされる。王妃はゴドイとの間に一男一女までもうけたというのに。権謀術数にたけた王妃マリア・ルイサが、こんなお人好し(というより愚鈍)の夫の国王をコントロールすることなど幼児をだます程度に容易だっただろう。

 ゴドイは18歳の時に、当時34歳のマリア・ルイサに見初められた。そして親衛隊の美少年から王妃の愛人を10年ほど勤めあげたあと、国軍総司令官、次いで「平和大公」という奇妙な称号を与えられ、国政を意のままに操ったが、「才能も、教養も、高尚な感覚も持ち合わせず、ただ強欲と野心あるのみ」(駐スペイン・ロシア大使ジェノヴィエフ)とまで悪評を浴びせられた。

 話を、フランス革命勃発時に戻そう。隣国フランスでの大革命の動きが伝わると、今やスペインの課題は、革命がピレネー山脈をこえてイベリア半島に波及するのを防ぐこととなる。革命の汚染を防ぐための「防疫線」がフランスとの国境に設けられ、革命的出版物取締りのために異端審問所の検閲権限が強化される。1791年には国内の不穏な動きを察知するために秘密委員会が設けられ、外国人登録制度も厳格となった。しかし父王カルロス3世の宰相だったフロリダブランカ伯のフランスへの介入政策は功を奏せず、かわって宰相となったアランダ伯も介入と融和の政策的揺れ動きの中で国王の信頼を失ってしまう。1792年11月、事態解決の期待を担って宰相に就任したのは、王妃マリア・ルイサの寵愛を受けていた弱冠25歳のマヌエル・ゴドイだった。そしてゴドイは、このときから1808年春「アランフェス暴動」で失脚するまでの期間、1798年から1800年にかけての一時期を除いて、国王夫妻の信頼を得て「宰相専制主義」と称される絶対的権力を享受することになる。

 実は前述したゴドイのマイナスイメージは今では大きく塗り替えられている。王妃の寵愛を受けていたことは間違いないが、司法官たちを基盤としたフロリダブランカ伯と貴族たちの支持を得たアランダ伯の両者を罷免した国王カルロス4世は、これまでの党派によらないあらたな人物を必要としていたのであり、若い啓蒙改革者ゴドイはうってつけの人物であったのだ。フランス革命の波及を恐れる王権は、ゴドイに政治的自由主義を弾圧させるが、その一方で、国家存亡の危機ゆえに「上からの改革」をゴドイに託さざるを得なかったのである。当初のゴドイの対外政策は、なによりもブルボン家の同族利害を代弁してフランスのルイ16世の命を救うことにあった。しかしさまざまな干渉は功を奏さず、1793年1月、国民公会はルイ16世を処刑。同年3月からフランスとスペインは戦闘状態に入る。しかし、1794年7月「テルミドールの反動」でフランスの恐怖政治が終わると、戦闘続行の負担に苦しむゴドイ政府は和平に転じ、1795年7月にバーゼル平和条約を締結する。

ゴヤ「平和公マヌエル・デ・ゴドイ」王立サン・フェルナンド美術アカデミー

ゴヤ「王妃マリア・ルイサ」プラド美術館

ゴヤ「カルロス4世」プラド美術館

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