フランスの歴史と郷土料理11 リヨン(1)キュルノンスキー
「和食」がユネスコ無形文化遺産に登録されたのは2013年12月だが、フランス料理の登録はその3年前の2010年11月。そしてフランスの文化省と農業省は、ユネスコ無形文化遺産への登録を機に国内の4都市に食文化施設を置くことを決定。2013年、「フランス食の遺産・文化委員会」によって「リヨン」(食と健康)、「トゥール」(食の科学)、「ディジョン」(ワイン)、「 パリ=ランジス」(食芸術)が選ばれた。さらに2019年10月19日、リヨンに待望の「国際美食館」(La Cite Internationale de la Gastronomie)がオープン。博物館・文化センター・生活とイノベーションの場を兼ねた複合施設で、総面積は4千㎡。4フロアにまたがり、テーマに沿った様々な展示を行っている。
リヨン国際美食館がある「グラン・オテル・デュー」は、 12世紀建造されたローヌ川河畔に佇む4階建ての建物でリヨンのランドマークのひとつ。リヨンでも大きさで一、二を争う建物(5万㎡)。もともと病院だったが、特徴的なドームがひと際目を引く。それもそのはず。設計したのは18世紀の建築家ジャック=ジェルマン・スフロ。パリの「パンテオン」を設計した人物だ。現在、この施設にはレストランやショップ、「インターコンチネンタル・リヨン・オテル・デュー」が入っている。
リヨンは「美食の街」「美食の首都」と呼ばれる。今では、フレンチの巨匠ポール・ボキューズとセットでイメージされることが多いがそれは比較的近年のこと。確かにポール・ボキューズが、世界中にリヨンの名を広めた人物であることは間違いない。レストランガイド『ゴ・エ・ミヨ』から「世紀の料理人」、「料理の教皇」と評され、50年以上に渡りミシュランの3つ星を保持していた。リヨンの中心地パール・デュー駅近くにある近代的なガラス張りの建物はリヨン中央市場。1859年、別の場所でオープンしたこの市場が今の場所に移転したのは1971年。そしてリヨン生まれのポール・ボキューズに敬意を表し、「レ・アール・デュ・リヨン・ボキューズ」(Les Halles de Lyon Paul Bocuse)と名付けられたのは2006年のこと。また、ヨーロッパ屈指の規模のコンベンション会場、ユーロエクスポ・リヨンの一角には、「ポール・ボキューズ・ホール」と呼ばれる会場がある。ここは、料理のワールドカップ、「ボキューズ・ドール(Bocuse d’Or)」における決勝の地。この大会が、「世界中の若いシェフ達を集めて料理を競わせ、ガストロノミー界のスターたちがジャッジをする。そして、それらをオーディエンスの前で行う」というポール・ボキューズの提案により創設されたのは1987年。
1926年生まれのポール・ボキューズが16歳でリヨンの「レストラン・ド・ラ・ソワリー」(Restaurant de la Soierie)で見習いを始めたのは1942年。しかし、リヨンが「美食の首都」(″Lyon est la capitale mondiale de la gastronomie. ″)と初めて言われたとされるのは1934年(1935年に『Lyon, capitale mondiale de la gastronomie』が出版される)。言葉にした人物はキュルノンスキー(1872-1956)。ロシア人ではない。 メーヌ・エ・ロワール県アンジェ生まれで本名はモーリス・エドモン・サイヤン。20世紀前半を代表する美食評論家として、新聞への執筆や著作も多数あり、キュルノンスキーはペンネーム。1926年には新聞紙上のアンケートで「美食のプリンス」に選ばれる。あまり日本では知られていないが、1907年にあのミシュラン社のマスコット人形「ビベンドゥム」(タイヤをかたどった太った大男)を創造した人物でもある。1921年からマルセル・ルーフとともに25年以上にわたって、みずから車を運転してフランス各地の郷土料理を探索、その間『フランス食べ歩き』を描き続けた。1933年には、これらを1巻にまとめて『フランス料理の宝庫』を出版した。
「リヨンはガストロノミーにおいて世界の首都だ。フランスとナバラ(スペイン東北部の地方)にあるレストランはほとんど全部行ったけれど、リヨンよりも堪能したところはなかった。」
「美食のプリンス」キュルノンスキーにこう言わしめたリヨンの郷土料理について見てみたい。
キュルノンスキー
リヨン中央市場「レ・アール・デュ・リヨン・ボキューズ」(Les Halles de Lyon Paul Bocuse)
リヨンの街とポール・ボキューズ
「グラン・オテル・デュー」
キュルノンスキー
キュルノンスキー
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