フランスの歴史と郷土料理6 ブルターニュ(1)
フランス人を理解する上で間違えやすいのが「フランス人はラテン民族」という考え。確かに、ユリウス・カエサルによって征服(ガリア戦争)され、ローマ化(ラテン化)されたが、それ以前にこの地に住んでいたのはガリア人=ケルト人。そして西ローマ帝国が滅んだあと支配者になったのはフランク族=ゲルマン民族。だからフランス人は、ケルト・ラテン・ゲルマンの融合した民族であり、その中の要素のどれが強いかは地域によって大きく異なっている(水道橋や円形闘技場など堅牢な建造物を次々に作ったローマ人や、組織づくりに長けていたゲルマンの人々に対して、先住のケルト人たちは、自由な気風を持ち、自然を畏れ神秘的なものを敬い続けた民族であったとされる)。地中海に面したプロヴァンスは、ローマ化が早く進んだ地域で、ラテン色が色濃いのに対して、ブルターニュはケルト色が濃厚だ。なぜか?
ブルターニュは、北は英仏海峡、南は大西洋に面したフランス最大の半島からなる地方。フランス語では「Bretagne」。では、イギリスの「グレート・ブリテン島 Great Britain」をフランス語では何と呼ぶか?
「グランド・ブルターニュ Grande Bretagne」。では「ブルターニュ」と「グラン・ブルターニュ」の関係は?
ブリトン人(フランス式には「ブルトン人」)は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れた(5世紀半ばごろ)。そして、フランスではブリトン人(ブルトン人)の住むようになった地域を「ブルターニュ」呼び、本来のブリタニアを「グランド・ブルターニュ」と呼んで区別したのだ(グレート・ブリテン島は、5世紀中頃からゲルマン人の一派であるアングロ人=サクソン人が侵入し、先住のケルト人を征服し、そこに7つの王国をつくった)。
5世紀頃のヨーロッパは、ゲルマン民族がヨーロッパのあちこちに国を打ち立てた時代。彼らの侵入は、栄華を誇った西ローマ帝国は滅亡させただけでなく、イギリスにいた先住のケルト系住民たちをコーンウォール半島やウェールズといった西の端へと追い詰めた(アングロ・サクソン族)。行き場を失った彼らが船に乗って渡った先がブルターニュ。その後、6世紀ごろにフランスにやってきたゲルマン系フランク族との長い戦いの末、824年ブルターニュ地方はとうとうフランク王国に征服されてしまう。このとき、フランク王国は生粋のブルトン人であるヴァンヌの土豪ノミノエにブルターニュ公の称号を与え、ブルターニュ地方の統治を任せたのがブルターニュ公国の始まり。フランスやイングランドといった外敵から何とか独立守り続けるが1532年、フランス国王フランソワ1世の王妃であり、最後のブルターニュ公女となったクロードが亡くなると、後継者を失ったブルターニュ公国はフランス国王の下に統合され、ついに700年に及ぶ歴史に幕を下ろしてしまう。ただし、ブルターニュは、塩税の免除などいくつかの特権を授け、15世紀から18世紀にかけ、経済的な黄金時代を迎えた。ブルターニュ公国が法的に廃止されたのはフランス革命中の1789年のこと。
フランスのー地方となった現在でも、なおその独自性は引き継がれており、ブルターニュの人々はブルターニュを「ブレイス Breizh」、自らをブルトン人「ブレイザッド Breizhad」と呼び、独自の言語(道路標識や看板はフランス語とブルトン語の2言語表記)、独自の国歌、国旗(グエン・ナ・デュ Gwenn ha du)さえ存在する。
カルナック列石 ブルターニュ地方のカルナックにある巨石遺構
ブルターニュ
「コワフ」この地方特有のレースで編まれた背の高い帽子
1675年にこの地方で反乱が起きた。それを鎮圧しようとした国王が教会の尖塔を倒したのに抵抗した女性たちが、頭の上に高いコワフを載せるようになったのが始まり。
ブルターニュの旗
フランス語とブルトン語が併記された道路標識
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