フランスの歴史と郷土料理1 コート・ダジュール(1)「サラダ・ニソワーズ」

 フランスのプロヴァンス・アルプ・コート・ダジュール地方はコート・ダジュールとプロヴァンスが含まれ、かつては単にプロヴァンスと呼ばれていた。フランスを代表するサラダにはコート・ダジュールの中心都市ニースの名が冠せられている。「サラダ・ニソワーズ salade niçoise」(ニース風サラダ)。茹でたサヤインゲン,卵を,ツナ、トマト,アンチョビ,黒オリーブなどと混ぜ合わせ,ニンニク、オリーヴオイルであえるサラダ。パリのカフェでも必ずと言っていいほど茹でたサヤインゲンが入っているし、茹でたジャガイモもよく見かける。しかし、ニースっ子たちからすればこれは邪道。ニース周辺では「ゆで卵以外、火を通したものは入れない」のが原則なのだ。さらに、もともとは食べる時期も夏の始まりのわずかな期間に楽しむ郷土料理だった。夏野菜以外に使われるツナ(マグロ)も今ではオイル漬けを使うことが一般的だが、もともと地中海のマグロ漁は5月の終わりから6月の終わりまでの1か月。地中海で獲れるアンチョビの旬も5月に始まる。だから「サラダ・ニソワーズ」は、初夏の海と大地の恵みを享受する一皿なのだ。

 それにしてもイタリア食の要素が濃厚な一品。それもそのはず。プロヴァンス地域は、ユリウス・カエサルが登場する以前の紀元前154年ローマ人に占領され属州とされ、「プロヴァンス」の語源もラテン語の「プロウィンキア」(provincia属州)に由来する。その後、多くの戦争に翻弄されるが、ニースを攻撃、占領したのは外国だけじゃない。中心はフランスだった。

1543年 フランス王フランソワ1世、トルコと同盟を結びニースを攻撃

1691年 フランス王ルイ14世治下のフランス軍、ニースを占領

1792年 フランス革命政府軍、ニースを占領

1860年 サルデーニャ王とナポレオン3世の同意によりニース及びサヴォワ公国がフランスに併合される

 どういうことかと言うと、ニースは1388年から1860年まで後にイタリア統一を主導していくサルデーニャ王国の前身であるサヴォイア公国に属していたため、イタリア文化に強い影響を受けていて、今日でもニースの建築や料理、ライフスタイルにみることができる。パリに次ぐフランスで2番目の観光都市と言っても、パリなどとはフランス国家への意識は大きく異なっている。

 ニースの旧市街にある街の象徴ともいえる場所は「ガリバルディ広場 Place Garibaldi」。名前の由来となったジュゼッペ・ガリバルディは、イタリアを統一したニース(イタリア語で「ニッツァ Nizza」)出身の英雄で、広場の中央には像も建っている。彼は、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人。1860年、千人隊(「赤シャツ隊」)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼす。そして、征服地をサルデーニャ王エマヌエーレ・ヴィットーリオ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。イタリアでは国民的な英雄として人気がある。イタリアの町にはガリバルディの銅像や彼の名を冠した「ガリバルディ通り」、「ガリバルディ広場」などが数多く見受けられる(ローマの街を見渡せるジャニコロの丘の「ガリバルディ広場」、コルソ通りとともにミラノで一番のおしゃれな通りだと言われているのが「カリバルディ通り」、ナポリ中央駅前の「ガリバルディ広場」など)。

 ところで、ニースが1860年にフランスに併合された経緯はこうだ。サルデーニャ王国は1858年、オーストリアが支配していたロンバルディア(ロンバルド=ヴェネト王国)を奪回するためにフランスと密約(「プロンビエールの密約」)を結び、連合軍を結成してオーストリアとの戦いに臨んだ。もちろんナポレオン3世は軍事援助の見返りを求めた。それが、サヴォワ、ニース両州の割譲だったのだ。これを知ったガリバルディは、故郷がフランスに割譲されたことに激怒し、以後サルデーニャ王国側との対立を深めていくことになるのである。

ガリバルディ広場(ニース) 中央がジュゼッペ・ガリバルディ像


ジュゼッペ・ガルバルディ

サラダ・ニソワーズ  ツナ缶ではなく生マグロを使用したもの

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