寿司のはなし4  握りずし誕生!

 江戸後期、「早ずし」よりもさらに早く食べるために考案されたのが「握りずし」である。ひと握りの酢飯の上に、魚介の切り身を乗せた握りずしは、通説によると文政5、6年頃、両国の寿司職人、華屋与兵衛が創始したとなっている(深川の「松がずし」という説もある)。「握りずし」は大変な評判を呼んだ。「何でもその場ですしができるらしい」「それも変な手つきでさっとつくるそうだ」その手際を自分の目で確かめようと見物客が押し寄せ、客の方がすし詰めになったとか。

   「握られて出来て食いつく鮓の飯」    「鮓のめし妖術という身でにぎり」

 後者の川柳は、すしを握る与兵衛の手つきが妖術使いの呪文を唱える手つきに似ていると詠んでいる。

また、与兵衛のすしは手品のすしだとも噂された。あらかじめ魚に下ごしらえがされ、それを酢飯に乗せるので、醤油をつけなくてもそのまま食べられたからだ。山葵(わさび)をタネと酢飯の間にはさむのも与兵衛の考案である。また、すしは二貫で提供されることが多いが、これも与兵衛の工夫とされる。江戸時代のすしは一貫がとても大きく、これを食べやすいように二つに分けて出したのだと言われる。

握りずしは元来、屋台でつまむもので、今でいう「ファストフード」。江戸前の海のとれたての魚介を使って、その場で作ってくれる。待たずに食べられるのがせっかちな江戸っ子にはうれしい。すし屋の数は急増。嘉永6年(1853)にまとめられた『守貞謾稿』にはこう記されている。

   「江戸は鮓店はなはだ多く、毎町一、二戸。蕎麦屋一、二町に一戸あり」

 そしてその大半は握りずしの店だったようだ。

 ところで、江戸で握りずしが人気食品になった背景には、江戸の町の目前の江戸湾で揚がった多種多様な海の幸をすしダネに使えたこと、目の前でさっと出されるサーブの仕方が江戸っ子気質にマッチしたことがあるが、それだけではない。江戸ではすし飯に使う上質の白米が容易に入手できたことも重要な要因だ。さらに、握りずしが求める条件に適した酢、粕酢が握りずし誕生の直前に生まれていたことも大きい。すし飯の酢には砂糖と塩を加えるが、当時の砂糖は非常に高価なものだった。しかし、酒粕を原料とした粕酢には甘味があるため、塩とともに飯に混ぜるだけで、美味しい酢飯をつくることができた。また、それまで使われていた米酢よりずっと低コストで製造できる。酒造りの廃棄物ともいえる酒粕が原料だからだ。屋台で庶民が食べる握りずしの普及には、この値段の安さも重要な条件だった。

 実はこの粕酢、尾張の国の半田村(現在の愛知県半田市)のひとりの酒造家のベンチャー精神から生みだされた。当時、この地方ではすでに酒粕を利用した酢づくりは行われるようになっていた。問題は、酒造業者が酢をつくること。確かに、原料の酒粕はふんだんにある。しかし、酒造家が酢をつくることはタブーだった。なぜか。酒造りの蔵に、酢づくりで使う酢酸菌が混入して酒を二次発酵させて酢に変えてしまう恐れがあるためだ。しかし、半田村の中野半左衛門の養子に入り、さらに文化元年(1804)に分家独立して一家を興した又左衛門は、進取の気性に富んだ人物だった。酒造業の不振を打破すべく、酢づくりという新たな事業にチャレンジ。そして見事成功。すっかり評判となった粕酢を、又左衛門は江戸で販売しようと考える。そのきっかけは、又左衛門の耳に飛び込んできた、「江戸では最近『早ずし』が人気を呼んでいる」という噂。江戸の町で又左衛門は、噂どおり早ずしが江戸の人々に大受けしていること、そして使っている酢は当時まだ高価だった「米酢」であることを知る。「米酢を粕酢にすることができたら、もっとおいしくて手軽なすしがつくれるはずだ」又左衛門は半田に戻り、積極的に江戸への売り込みを開始。すると、「粕酢の風味や旨みがすし飯に合う」と、江戸でも人気のすし屋がどんどん粕酢を使うようになる。江戸っ子のハートをつかんだ握りずしの大ブームとともに、又左衛門の粕酢は江戸前握りずしに欠かせないものとなっていった。そして19世紀半ばには、「酢といえば尾張」と江戸で言われるほどの成功を果たすことになる。この男こそ、現在も酢のトップシェアを誇るミツカングループの創業者・中野又左衛門である。

歌川豊国(三代)「見立源氏はなの宴」全体

歌川豊国(三代)「見立源氏はなの宴」部分

国芳「縞揃女弁慶(しまぞろいおんなべんけい)寿司の安宅」)

 安宅河岸(あたけがし)とも呼ばれていた深川六軒堀にあった「松のすし」。絵の上部に「をさな子もねだる安宅の松か鮓」とある。女性の右手の皿の上には折箱からとり出したすしがあり、一番上に海老の握りずし、その下に玉子の巻ずしが二つ、さらにその下に鯖の押ずしがある、とされる。

国芳「天竺徳兵衛」 与兵衛の手つきが妖術使いの呪文を唱える手つきに似ているとされた

ミツカン赤酢の最高峰。江戸前寿司が今のスタイルになり、当時の寿司職人、食通たちの間で人気となったきっかけにもなった。

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