寿司のはなし3 「なれずし」から「早ずし」へ
冷蔵技術のなかった時代、肉や魚の保存は塩蔵(塩漬け)、乾燥、発酵、燻製等によって行われた。寿司のルーツも、飯の自然発酵により生じる乳酸によって肉や魚の腐敗を防ぐ貯蔵法で、発祥の地は、東南アジアの山岳盆地だと言われる。この原型を留めているのが滋賀県の琵琶湖周辺でつくられている「鮒ずし」。まず、琵琶湖にのみ棲息するニゴロブナを数か月間塩漬けにする。その後塩抜きをして、飯と一緒に桶に入れて1年ほど漬け込む。桶内のフナは飯の乳酸発酵によって腐敗が防止され、アミノ酸などのうま味成分が増す。しかし、飯自体は粥状になってしまい、捨てられ、食べるのは魚だけである。
そういう「熟れずし」の時代は長く続くが、室町時代になると、「なれずし」よりも漬け込み期間を短くした「生なれ」が作られるようになる。吉野(奈良県)や岐阜の鮎ずしが有名だ(徳川家康の大好物だった)。生なれは、飯はいくらか酸味を帯びているが、魚は十分に馴れていない。魚がまだ生々しいうちに食べるすしで、日本人にとって大切な主食である米(飯)も無駄にしないで魚と一緒に食べる。この段階に進んで、すしは副食的なものから主食的なものへと姿を変えた。発酵過程を促進する工夫もなされる。強い圧力を加えることで乳酸発酵を早める「押しずし」である。
魚とともに飯も食べるようになったのは、今のすしに近づく大きな変化だったが、飯の乳酸発酵への依存は続き、ここから脱却するのは江戸時代を待たなければならない。江戸時代に入ると、米酢が広く販売され、飯に酢を混ぜて酸味をつくりだせるようになったのだ。「早ずし」の誕生である。「早ずし」は一晩で出来上がることから、「一夜ずし」とも呼ばれた。そして宝暦(1751~64)の初めに料理茶屋が早ずしを酒の肴に出し、さらにすし店(江戸にすし店が現れたのは17世紀後半。ただし扱ったのは、「なれずし」と「生なれ」)が売り出し、進物にされたりして人気を得た。早ずしの屋台も登場。『絵本江戸爵(すずめ)』(天明6年【1786】)には、喜多川歌麿によって早ずしの屋台店が描かれているが、小さく切った押しずしが並べられている。さらに、早ずし売りも宝暦の終わり頃に現われた。若い男が粋な格好で美声をあげて、アジやコハダのすしを売り歩いた。
「あじのすう こはだのすうと にぎやかさ」
江戸前の名産とされていたアジに対し、コハダは同じ江戸前の魚でも下魚扱いされていた。それが、すしダネに用いられるようになると、評価が一変。小川顕道の『塵塚談』(文化11年【1814】)にはこうある。
「河豚(ふぐ)・鰶魚(このしろ)我ら若年の頃は武家は決して食せざりしものなり。鰶魚はこの城を食ふといふ響きを忌(いみ)てなり。河豚毒魚をおそれてなり。二魚とも卑賤の食物にて河豚の価一隻銭十二文ぐらい、鰶魚は二十三銭(文)にて有しが、近歳は二魚とも士人ももてはやし喰ふゆえに、河豚は上市(はしり)一隻二百銅三百銅(文)にして賤民の口へは思ひもよらず。鰶魚は今世も士人以上は喰はざれども、魚鮓(すし)にして士人も夫人も賞翫しくらふ。河豚も乾ふぐは貴富も少しもおそれず喰ふ。鰶魚のすしに同じ」
コノシロは出世魚で、成長に従ってシンコ、コハダ、コノシロと名を変えるが、ここではコハダと同義に扱われている。コハダはすしと出会って出世し、代表的なすしダネとなったが、彫刻家・高村光雲は『味覚極楽』の「御維新前後」のなかでこう記している。
「手拭を吉原かぶりにして、粋な物ぎれいなこしらえの売子が「すしや、こはだのすーし」といってやってくる。舟の形をした菓子折のしっかりしたようなもの積み重ねて、これを肩にのせて、草履がけかなんかでいい声で売りにくるのである。この仕出し寿司、大きな問屋がたくさんこしらえて売子へ渡すのであるが、舟一つに二十四詰まっていて、値はたった百文、ひとつ四文という安いものである。舟の上には桃色のふきんがぱらりとかかっていた。当時まぐろも、もとよりあったが、寿司の代表はこはだ、これが一番となっていたので「寿司やこはだの寿司」とふれた。こはだという魚は、あのまま食べてはつまらないものだが、寿司にすると馬鹿にうまくなる」
鮎ずし(生なれ)
鮎ずし(生なれ)
すしの屋台店 喜多川歌麿画 出典『絵本江戸爵』
幕末期のすし売り『狂歌四季人物』
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