寿司のはなし2 鮪と日本人②
江戸文化研究家として知られる三田村鳶魚の『娯楽の江戸 江戸の食生活』に、鮪に関するこんな記述がある。
「文化七、八両年は、冬になって、伊豆・相模方面で、一日一万尾の鮪が捕れたということです。沢山捕れたから安くもなり、安いから広がりもしたんでしょう。・・・・天保三年の二三月頃に捕れたのは、また大変なもので、・・・・文化の大漁の時には、仕方がないから肥料にしたので、今度も無論そうしたけれども、しきれぬほど沢山ある。弱ってしまった。何とか早く消化する法を考えなければいかぬ。ということになって、その時分に思いついたのが、一番いいところを択って鮓にするということなのです。鮪の鮓はこの時はじめて出来た。私の祖父は文政生れでしたが、鮪の鮓が出来た時分に、評判だからやってみたが、どうもいけない。元来鮓というやつは、酢の利いたものを乗っけるのだが、鮪ではそれが出来ない。鮪に酢を利かせようとして、酢に浸けたら肉が変色する、真白くなるだけで、肌がザラザラになって、見たところもキタナクなる、是非あの儘で酢の気のないところでいく、その頃は醤油をつけて鮓を食うことを知らないから、前からある鮓につもりでやるといけない、いくらもあって安いものだし、見た目も綺麗だから、ひょっとやってみるが、どうもあれには困った、と言っておりました。」
こんな状況を変えるべく、苦肉の策として編み出されたのが「ヅケ」。鮪の柵を湯引きしてから醤油につけ込むという方法である。この方法、江戸中期ごろまでには決して思い浮かばなかったであろう。それは、それまで醤油は高級酒以上に高価なものだったからだ。慶安期(1648~52)に、米1升の値段が26文、伊丹極上酒が80文なのに対して、大坂河内屋の醤油は108文。元禄期(1688~1704)になり、大坂や江戸の消費市場が拡大するにつれ、醤油の生産量・消費量は伸び、値段も下がっていく。関東でも元和2年(1616)にヒゲタの創業者田中玄蕃が銚子で醤油醸造を始めたのを皮切りに、下総国・上総国・常陸国など各地で醤油づくりが行われるようになり、関東醤油は値段も安かったが売れるのは値の張る上方産。味や品質でまだ太刀打ちできなかったのだ。記録によれば、享保11年(1726)に江戸に入荷した醤油は13万2829樽で、そのうち75%以上の10万1457樽が上方からの下り物だった。
しかし江戸時代後期には状況が一変。関東醤油が下り醤油をしのぐようになる。文政4年(1821)には、1年間に江戸に入った醤油125万樽のうちなんと123万樽が関東産だった。ここまで関東醤油が急成長した最大の要因は、関東の醤油産地が江戸市民に好まれる味をつくりだしたことにある。現在の醤油の原材料は大豆・小麦・塩・水だが、江戸時代初期は小麦ではなく大麦が使われていた(1697年【元禄10年】刊『本朝食鑑』には「等量の大豆と大麦で麹をつくる」)。しかし、小麦の方が香りや色が優れていることを関東の醸造家たちが発見し、しだいに小麦を使う製法が主流になっていった(1712年(正徳2年)刊『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の2種があり、市販されているのはみな小麦を原料にしている」)。そして、江戸で生まれた蕎麦や鰻など濃い味付けの料理には、上方の薄口醤油より、小麦を使った香り高い濃い口しょうゆの方がぴったりだった。下魚とされていた鮪を「ヅケ」にするという発想も、関東醤油の生産量が増え値段が下がったことと江戸っ子好みの味の醤油が生み出されたことが背景にあったのである。
ところで、今や高級品の代名詞と言ってもいい鮪のトロだが、評価が定まったのは1960年代、ごくごく最近のことである。明治時代までの日本食はあまり油脂の多い食材を使わなかったので、当時の人々の口に合わなかった。トロは脂分が多いため、醤油が染みこんでくれないので、「ヅケ」にも向かない。だから捨てるか、畑のコヤシにでもするしかなかった。まさに「猫またぎ」(猫も食べないほどの部分で、食べ物ではない)だった。それでも、貧しい庶民は安い鮪を何とか食べようと工夫する。そして誕生したのが「ねぎま鍋」。考案されたのは幕末ごろ。醤油、みりん、だし汁、臭い消しとしての酒を加えて、ねぎとトロを煮る。鍋で煮ればトロの脂肪は汁に溶けて無くなるから、口にしたときに気持ち悪さが減少。脂肪分が苦手な当時の人々も口にできるようになったというわけだ。
『天保三年伊豆紀行』画帳 沼津におけるマグロ大漁の様子
歌川芳員『魚づくし』「小魚の中の鮪の涅槃像」
三代歌川広重『大日本物産図会 下総国醤油製造之図』
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