寿司のはなし1 鮪と日本人①

 北大路魯山人は、随筆『握りずしの名人』の冒頭でこう述べている。

「東京における戦後の寿司屋の繁昌は大したもので、今ではひと頃の十倍もあるだろう。肴と飯が安直にいっしょに食べられるところが時代の人気に投じたものだろう。しかし、さて食える寿司となるとなかなか少ない。」

 そのうえで鮪についてこう書いている。

「いったい寿司のウマイマズイはなんとしても魚介原料の問題で、第一に素晴らしいまぐろが加わらなければ寿司を構成しない。」

 いまも鮪は、寿司ネタとして絶対的な主役の座に君臨しているが、その地位を得たのは古いことではない。ところで、10月10日は「まぐろの日」。1986年(昭和61年)、日本かつお・まぐろ漁業協同組合によって鮪の消費拡大を目的として制定された。その由来は、日本最古の歌集である『万葉集』の中にある山部赤人が詠んだ次の歌。

  「印南野(いなみの)の 邑美(おふみ)の原の 荒袴(あらたえ)の 

   藤井の浦に鮪(しび)釣ると 海人舟騒ぎ 塩焼くと 人ぞ さはにある」 

(印南野、邑美の原の近く、藤井の浦で鮪を釣ろうとして海人の舟がたくさん集まりまた、浜では塩を焼こうと大勢の人が出ています。)

 山部赤人が聖武天皇の伴をして明石へ赴き、この歌を詠んだのが西暦726年(神亀3年)10月10日。「まぐろの日」はこの日に由来している。このように鮪と日本人の歴史は古い。また各地の貝塚から、体長1m以上と推定されるまぐろの骨や、骨角製の大型釣り針や銛が出土されたため、当時から狙って獲っていたこともわかっている。しかし、当時の簡素な道具でどうやって鮪を捕っていたのか。万葉集に大伴家持のこんな歌がある。

       「鮪突くと 海人の燭(とも)せる 漁(いざ)り火の

        穂にか出(いだ)さむ 我が下思(したも)ひを」 

(海人達が鮪を獲ろうと漁火を赤々と焚いています。私もあの漁火のようにあの人に対する想いをはっきりと表に出してしまおうか。何時までも胸に秘めていないで。)

 古代の海人たちは漁火の下に集まる鮪を銛で突くという豪快かつ危険な漁をしていたようだ。もちろん当時は、都市部で鮪を生で食べる習慣などなかった。そんな習慣が都市部にまで広がるのは江戸後期以降のこと。まぐろは外海を泳ぐ魚である。江戸時代の関東周辺の場合、漁場は相模湾沖や房総沖。しかし早船で運んでも、日本橋の魚市場に着くまでは数日かかる。冷蔵技術のない時代であり、そもそも赤身のまぐろは劣化が早い。そのため、江戸のような都市部で生のマグロを食べることは難しかったのである。イワシやサンマなどと同様に下魚として扱われたのもそのためだ。また食べ方もナマより塩漬マグロであり、口にするのは 長屋暮らしの人々や山村生活者だった。『江戸風俗誌』にこうある。

「まぐろなどは、はなはだ下品にて、町人も表店住まいの者は食することは恥ずる体なり」

 魚売りも、ナタでたたき切って売っていたことが次の川柳からもわかる。

          「鮪売り安いものさと鉈(なた)を出し」

 特に武士は、鮪に対して悪い印象を持っていた。鮪の別名である「シビ」が「死日」につながるから縁起が悪いとされ、徳川将軍家の食膳にのぼることは決してなかった。「鰹」が「勝男」、「鰹節」が「勝男武士」につながり縁起物として好まれたのとは大きく異なる。

歌川国安「日本橋魚市繁栄図」全体

歌川国安「日本橋魚市繁栄図」部分

『江戸名所図会』「日本橋 魚市」部分

十返舎一九「諸国道中金草鞋」鮪を馬に縛り付けて運ぶ様子 今の浦和、大宮、上尾あたり

0コメント

  • 1000 / 1000