江戸の名所「深川」⑫時代小説と深川(4)池波正太郎2

 シリーズの中で特に人気が高い絵を浮世絵業界では「役物」というが、『名所江戸百景』の中で三役とされてきたのが「大はしあたけの夕立」「王子装束えのき大晦日の狐火」と深川を描いた「深川洲崎十万坪」である。この「深川洲崎十万坪」。最も奇想にして最も謎深いと言われる。海を前景、筑波山を後景に広がる荒涼たる大地。左手の材木が屹立するのは木場。暗い空からは雪が降り、画面上には天を覆うように鷲が大きく翼を広げている。その鷲の鋭い視線の先にあるのは、波に浮かぶ桶。それは何か?棺桶という説もある。いずれにせよ、深川が江戸時代になってから埋め立てられてできた新開地であり、それ以前は海岸の低湿地だったことを思い起こさせてくれる絵だ。

 『剣客商売三 陽炎の男』第7話に「深川十万坪」という話がある。徳川将軍の縁につながるほどの大名(桑名藩松平家。藩祖の松平忠雅の実母は、徳川家康の娘亀姫)の家来どもが、白昼、酔って市中を横行し、通行中の娘をとらえ、ふざけかかり、それを升酒屋「大島屋」(「升酒屋」=小売りの酒屋)の「金時婆さん」(小さい頃口減らしに見世物小屋に売られて、怪力女の見せ物として売っていた過去をもつ)こと「おせき」や漁師の息子にたしなめられたあげく、「金時婆さん」から手痛い目にあい、万年橋から小名木川に投げ込まれた者もいた。報復の危険を察した小兵衛が大島屋に住み込み、襲ってきた連中を小兵衛が撃退、一人を捕らえ番所に突き出したが、口を割らず取調中に舌を噛みきって死んだ。その遺体を小兵衛が屋敷にとどける。

そして、小兵衛のところに呼び出しが来る。浅草鳥越の下屋敷まで、と言われて駕籠に乗せられ、下ろされたところは、深川十万坪だった。

「そこは鳥越どころか、いちめんの葦の原であった。

 此処は俗に〔十万坪〕とよばれている埋立地で、享保のころに深川の商人が幕府へ願い出てゆるされ、十万坪築地の新田開発をしたわけだ。だから〔千田新田〕ともよばれているが、人家もほとんどなく、田畑も少ない。ただもう葦の原に松林が点在するといった風景で、これが、深川の木場(江戸の材木商が集中している町)の、すぐ近くにあるとはおもえぬほど、一種、荒涼たる景観を呈していた。」

 『名所江戸百景』「深川洲崎十万坪」を彷彿とさせる情景だ。

「小兵衛の乗った駕籠が地に着くや否やに、葦の原の間から、わらわらと十四人の侍たちが刀、槍を携えて踊り出し、籠を包囲した。

 そして、数箇の龕灯(がんどう)の灯りが、いっせいに駕籠へ集中した。

 雨が、まるで霧のようにけむっている。

 手槍を構えた一人が、するすると駕籠へ近づき、

「鋭!」

 いきなり、駕籠の戸ごしに中へ槍を突き入れたが、

 「あ・・・・」

 手ごたえがないのに、あわてて槍を引きぬいた、その瞬間であった。

 駕籠の向う側に刀を携えていた二人が絶叫をあげて転倒した。

 突き入れた槍よりも早く、駕籠の向う側の戸を開いて飛び出した秋山小兵衛が藤原国助が鍛えた愛刀ぬく手も見せずに、二人を斬って倒したものである。」

 小兵衛はたちまち6名を事も無げに斬り捨てる。しして7人目。

「捨身に斬りこむ一刀が、むなしく空間を切り裂いた時、その刀をつかんだ彼の腕は、小兵衛の藤原国助によって、草むらの中へ切り飛ばされていた。

 中年の侍が、悲鳴を発して倒れ、ころげまわって苦しむのを見やった小兵衛が、

「手当してやれ」

 茫然と立ちすくみ、もはや完全に闘志をうしなった数名の刺客に声をかけ、さっさと葦の間の道を消え去っていった。」

 深川十万坪にふさわしい場面だ。

広重「江戸名所 洲さき弁天之社 海上汐干狩」

広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」

0コメント

  • 1000 / 1000