「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」15 モーツァルトの恋と結婚①

 コンスタンツェはウェーバー家の四人姉妹の三女。実はモーツァルトが最初に好きになったのは次女のアロイージアだった。話はモーツァルトがコロレド大司教に最初の辞職願を出し母親とともに求職のために出かけたパリ旅行(1777年10月~1779年1月)にさかのぼる。ミュンヘンでの就職に失敗したモーツァルトは、父の生まれ故郷アウグスブルクを経てマンハイムに向かう。ここには当時ドイツ最高のオーケストラがあった(君主はプファルツ選帝侯カール・テオドール))。御前演奏は実現するも、就職の見込みはなかった。それでも、モーツァルトはマンハイムを離れようとしない。マンハイムの宮廷でバス歌手ならびに写譜係として生計を立てていたウェーバーの次女アロイージアにすっかり心を奪われてしまったからだ。彼女はソプラノ歌手で、歌は素晴らしいし、ピアノもうまい。父に紙でこう記す

「彼女は大変歌が上手で、きれいな澄んだ声をしています。演技だけはいまひとつですが、それさえ身につけば、どこの劇場でもプリマ・ドンナになれるでしょう。」(1778年1月17日付父宛手紙)

 若きモーツァルトは、ウェーバーとアロイージアを連れて、スイスやオランダ、イタリアへ行く計画を立てる。それを知った父レオポルトは激怒。長文の手紙で、モーツァルトに旅の目的を思い出させる。

「おまえはだれでもすぐに他人を信用してしまう。お世辞や耳ざわりのいい言葉を、お人好しぶりを丸出しにする。・・・おまえのあきれた計画のことを考えると、私は正気を失ってしまいそうだ。・・・おまえが人々に忘れられてしまう平凡な音楽家になるか、後世までも本で読まれる有名な楽長になるかは、ひとえにおまえの分別と生き方にかかっている。・・・パリへ行くのだ!それもすぐに。」(1778年2月12日付モーツァルト宛手紙)

 モーツァルトは父のこの断固たる命令に従い、涙ながらにマンハイムをあとにする。しかし、パリでは何もかも不首尾に終わり、最愛の母まで病で失ってしまう。傷心のモーツァルトが向かった先はマンハイム。父からは、故郷での復職が実現した(レオポルトがコロレド大司教に嘆願して認められた)から早急に帰国せよ、マンハイムに寄ってはならないと言われていたにもかかわらず。しかし、アロイージアとは会えない。ウェーバー一家はミュンヘンに転居していたからだ。この時マンハイムに宮廷はなかった。1777年12月30日、バイエルン選帝侯が死去すると、継承権を持つプファルツ選帝侯カール・テオドールは即座にミュンヘンへ行き、バイエルン選帝侯を兼任することになったからである。

 モーツァルトはミュンヘンへ行き、アロイージアのためにパリで作曲したアリアを献呈して彼女に結婚を申し込む。しかしきっぱりはねつけられる。新進歌手として注目を浴び始めたアロイージアにとって、パリで失敗したモーツァルトなど、ものの数に入らなかったのだ。

 1779年1月、ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、宮廷オルガニストの職があたえられ、年棒も以前の3倍に上がる。しかし、コロレド大司教との対立は深まるばかりで、ついに1781年6月解雇される。いよいよ希望に満ち溢れたウィーン生活が始まる。最初の住まいはなんとウェーバー家の下宿。実はウェーバー家では2年前にミュンヘンで主人が亡くなり、アロイージアはその翌年に俳優ランゲと結婚。その後未亡人は3人の未婚の娘たちとともにウィーンに移り住み、下宿を経営していたのである。作曲、相次ぐ演奏会、ピアノ教師としての活動、楽譜の出版など多忙な生活を送り、新進作曲家として人気急上昇のモーツァルトは、ウェーバー夫人の眼には、娘たちの悪くない結婚相手として映った。モーツァルトはアロイージアの妹で三女のコンスタンツェを愛するようになっていく。ウェーバー夫人の思う壺だった。

 父レオポルトはウェーバー家の娘との結婚に始終反対し続けた。評判の良くないウェーバー夫人に、世間知らずの息子がまたしてもたぶらかされたと考えたのである。モーツァルトは父を説得しようと何度も手紙をしたためる。しかし同意は得られない。1782年8月4日、モーツァルトはコンスタンツェとの1年越しの愛が実を結んで、聖シュテファン大聖堂で結婚式を挙げる。とうとう根負けしたレオポルトから同意の手紙が届いたのは、挙式の翌日のことだった。

1780年ころ モーツァルト、姉ナンナル、父レオポルト  母はすでに死去

アロイージア

コンスタンツェ

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