「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」3 ロレンツォ・ダ・ポンテ②

 ヴェネツィアを追放されたダ・ポンテは、オーストリア領フリウリのゴリツィアに向かう。1781年の秋、ヴェネツィアで知り合った詩人カトリーノ・マッツォラがその地に立ち寄る。ザクセン王国の首都ドレスデンから「宮廷詩人」の声がかかったからだ。ダ・ポンテはうらやむ。生活は快適だが、野心を満足させられない田舎町に埋もれていてはいけないと思う。やがてマッツォラを頼りにドレスデンに向かう。ドレスデンは芸術の都と言われ、建築も美しく、とりわけ音楽が盛んであった。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世【在位:1806~27】の時代にはオペラが花開いた。ダ・ポンテは、このドレスデンで宮廷詩人となっていたマッツォラの手伝いをする。台本創作の仕事はまれだったが、冠婚葬祭からあらゆる儀礼に関わる文章や詩句の作成、翻訳、上演台本の添削、修正。ダ・ポンテはマッツォラのおかげで、1年以上の時間をかけて同時代の台本作家に対する批評眼を養い、劇場の日常的情況を認識し、音楽家と歌手の台本に対する要求を知り、とくに劇作家の手法を習得することができた。

 ある程度生活に余裕ができると、またしてもダ・ポンテに「女好き」の虫が湧いてくる。意気投合したイタリア人画家の家に招待されて、食事を共にしているうちにその妻の美貌に惹かれてしまう。そればかりか、2人の令嬢にも好意を持ってしまう。危険を察知したのか、父親の画家は妻と二人の娘を連れて、市内から簡単に来られない田舎に引っ越してしまった。こんなスキャンダルを起こしたダ・ポンテに、ドレスデンを去ってウィーンに向かう決意をさせる出来事が起きる。それはマッツォラに届いたヴェネツィアの友人からの手紙。そこにはこう書かれていた。

「ヴェネツィアでは、ダ・ポンテがドレスデンに行ったのは、宮廷詩人の地位を奪おうとするためだと言われている。気を付けたほうがいいよ。ダ・ポンテ家の連中は危険だからね、先刻御承知のように」

 翌日、ダ・ポンテはウィーンに向かうべくプラハ行きの乗合馬車に乗る。その直前、気立てのよいマッツォラはダ・ポンテに一通の手紙を渡す。それはマッツォラの同郷の友人、ウィーンの宮廷楽長アントニオ・サリエリ宛の手紙だった。そこには、『回顧録』によるとこう書かれていた。

「サリエリ君、この短い手紙を持参する者は畏友ダ・ポンテです。私だと思って、最善を尽くしてくれ。彼の心根と才能はそれに値する。ラテン語の成句にある『わが精神の片方なり』というべき男です。よろしく」

 ウィーンになんのツテもないダ・ポンテにとってどれほど大きな価値のある推薦文だったことか。

「サリエリはこの時代最も有名な作曲家の一人で、皇帝と親しく、かつマッツォラの親友だった。彼はたしなみもあり、博学で、しかも教会の聖歌隊指揮者で、文人との交遊もあった。ウィーンについてからはこの手紙を片時も話さなかった。これは時間がたつにつれ、私にとって有利に働き、ヨーゼフ2世の寵愛を受ける最初のきっかけとなった」(ダ・ポンテ『回想録』)

 サリエリは親身になって、ダ・ポンテの面倒を見てくれた。彼が皇帝に目をかけられたのも、オペラ界、ひいては宮廷の内部に地歩を築くことができたのも、すべてサリエリのおかげだった。そして、1782年の初春、ついにヨーゼフ2世謁見の機会が訪れる。その時の様子を『回想録』から。

「誰もがいっていた、ヨーゼフは皇族の中でも最も人間的で心優しい人であると。とはいうものの、私は陛下の前に出るにあたっては大変な緊張と恐れを感じないわけにはゆかなかった。 

 陛下の微笑、その声の快い響き、またそれ以上に陛下の衣装と挙措のつつましさによって私は力づけられた。おや、いったい私は皇帝の午前に立っているのかな、と自問さえした。・・・陛下は私に祖国について、詩の勉学について、ウィーンにやってきた理由についてなど、種々の質問を下された。私はすべての質問にできるだけ簡潔に回答し、それがまた陛下には気に入られたようであった。最後に皇帝陛下はこれまでに何作ぐらいオペラ台本を書いたかと聞かれた。私は正直に答えた。

『陛下、皆無でございます』

『結構、結構』と皇帝はおっしゃった。『では、われらは処女のミューズ(詩神)を手に入れたわけだな』」

ブルグ劇場の周辺 1783年

マルチェッロ・バッチェレッリ「フリードリヒ・アウグスト1世」

メーラー「アントニオ・サリエリ」

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