「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」2 ロレンツォ・ダ・ポンテ①
ダ・ポンテの本名は本名エマヌエーレ・コネリアーノ。1749年3月10日、ヴェネツィア近くのチェネダ(現在はヴィットリオ・ヴェネトという都市に編入)のユダヤ人の家系に生まれた。現在「ロレンツォ・ダ・ポンテ街」と呼ばれる通りで、かつてはユダヤ人居住区、つまり「ゲットー」だった。いまでもヴィットリオ・ヴェネトの人たちはチェネダを「ゲットーのあったところ」と呼ぶそうだ。エマヌエーレ(ダ・ポンテ)が5歳の1754年、母が急死。父ジェレミアはしばらくして再婚を決意。相手はカトリック教徒のオルソラ。ユダヤの律法は、結婚はユダヤ教徒の間でしか認めていなかったし、カトリック教会もキリスト教徒とユダヤ教徒との結婚は許していなかった。ジェレミアが選んだのは、自らがユダヤ人を止めること、つまり改宗。それにともないジェレミアはガスパーロ、エマヌエーレはロレンツォと改名された。
信仰を持たない自分のような人間にとって、改宗の持つ重さは十分理解できないが、ロレンツォにとっては人生の重要なモメントとなったようだ。改宗の儀はどのように行われた『回想録』は言及していないが、決して教会内部でひっそりおこなわれたわけではない。それはカトリックの勝利の儀式であり、町を挙げての祝典であった。1763年8月24日、祝砲が一発ゲットーの背後にそびえたつ聖パウロの山から響き、続いて教会の鐘がチェネダの町に鳴り渡った。以後4日間改宗の祝祭は続いた。礼服に身をかためた司教ロレンツォ・ダ・ポンテ(オペラ『フィガロの結婚』の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテの名前はこの司教に由来)はキリスト教徒たちの行列の先頭に立ってこの小さな町を練り歩いた。チェネダの役人も町の貴族たちも行列に参加した。こうしてコネリアーノ一家はキリスト教徒になった。一家族の改宗にこのような大仰な祝典がとり行われたのは、それがローマ教皇庁の推進する「再カトリック化」(プロテスタントのカトリック化)や「ユダヤ教徒のカトリック化」の方針、戦略だったからだ。
改宗後、ダ・ポンテはゲットーを離れ、神学校の寄宿舎に入る。しばらくするとパドヴァ大学から赴任してきた教師のおかげでイタリア語の詩文が作れるようになり、イタリアの古典文学にも目を向けるようになる。やがて子ども心に、いつかメタスタージオ(功名をたてた詩人としてイタリア中で著名であった)のようになるという野心を抱く。ダ・ポンテは成績優秀で、やがて生徒指導に当たるようにもなるが、そのことがいじめを生む。反ユダヤ感情とないまぜになって、いじめは激しさを増していき、ついに彼は神学校を止める(聖職者の資格はとっていた)。ヴェネツィアに出たのは1773年、24歳の時だった。ヴェネツィア共和国は1797年にナポレオンによって崩壊するから、その26年前。すでに頽廃的な雰囲気が色濃く漂っていた。周辺の世界は変革を求める趨勢が濃厚だったし、地域によっては過激な運動も進行。フランスでは革命が勃発する寸前だった。しかしヴェネツィアはそうした周囲の情勢にきづきながらもなお爛熟した文化の香りを享受していた。このヴェネツィアでダ・ポンテは司祭となるが、同時にアンジョラ・ティエーポロという女性と深い関係になっていく。ただし、愛人との逢瀬のかたわら文学者との交流は続けていた。性悪なアンジョラに手を焼くようになったダ・ポンテは偶然知り合った貴族の令嬢マチルダから求婚され、さんざん悩んだ末、受け入れる決心をするがマチルダの財産を狙う義母の捜索願にもとづいてやってきた秘密警察に拉致されてしまう。1774年、ダ・ポンテはヴェネツィアを離れ、トレヴィ―ゾへ移り住む。その町の神学校に教師の職をえて、イタリア文学と修辞学を教えることになる。しかしここでもスキャンダル。ただし今度は女性問題ではなくアカデミックな問題。1778年8月に発表した詩文(テーマは「人間は社会的な体系に参加することによって、幸福を手に入れたであろうか、それとも自然という単純な状態にあったほうがより幸福であることができたであろうか」)が危険思想の兆候として告発され、ヴェネツィアの異端審問所に喚問されたのだ。有罪とされ、ヴェネト地方では一切の教職に就けなくなった。給料はなくなったが、体制の批判者と見なされて、ヴェネツィアの文化人には歓迎。詩人としてのプレステージも上がった。しかしまたしても女性スキャンダル。1777年8月30日人妻アンジョレッタと駆け落ちを決行するも、彼女の突然の陣痛、昏倒で失敗。夫からの告発で、裁判。1779年12月17日、ヴェネツィア共和国からの15年追放処分の判決が下された。ここからダ・ポンテの放浪が始まる。
フランチェスコ・グアルディ「リドット(賭博場)」カ・レッツォーニコ
グアルディ【1712~1793】はヴェネツィアの街(風景、風俗)を多く描いて成功した
ピエトロ・ロンギ「リドット」 1750年代
グアルディ「ヴェネツィアのキリスト昇天祭」コペンハーゲン国立美術館
ジャコモ・カサノヴァ
ダ・ポンテの若き日のヴェネツィアを象徴する人物。ヴェネツィアを舞台に、自由を渇望し、理想の愛を求め続け、世界中の女性たちを虜にしてきた稀代のプレイボーイ。
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