「ナポレオンとトルストイ『戦争と平和』」20 モスクワ遠征③

 退却軍はロシア軍に追撃され、コサックや農民に奇襲され、そのうえ11月になると冬将軍が加わり、飢餓と寒気による死傷者が続出した。とりわけドニエプル河とベレジナ河の渡河のさいには、今や圧倒的に兵力と火力に勝るロシア軍は、衰弱したフランス軍に襲いかかった。ベレジナ河の惨状をバーデン辺境伯はこう伝えている。

「言葉も違うあらゆる国籍の人間からなるこの集団が、ごっちゃになって算を乱し、押し合いへしあいして無茶苦茶に橋の方に殺到する図は、とうてい筆に表せるものではない。多くの傷病者が、氷塊の流れてゆく川に投げ込まれた。・・・・重みに耐えかねて橋が壊れることが幾度もあり、もう疲れ切って何も食べていない架橋兵たちは胸まで水につかりながら、わが身を顧みず鋭意作業に励み、軍を救うためには確実な死をもいとわなかった。馬に乗ったまま泳いで川を渡ろうとする兵もいたが、水中に没したままであった。要するにどちらに目をやっても、悲惨な悲しい情景が見えるだけである。・・・・橋のそばで、恐ろしい情景が起きた。ロシア軍の砲弾が落下するので、はなれて休んでいた連中も橋の方に急いだ。車両が入り乱れてひっくり返り、見捨てられるものもある。大勢の人間が踏みつけられて窒息し、あるいはベレジナ河のなかに押し出されてそこで死んだ」

                                         

 11月29日午前7時、エブレ将軍はナポレオンから「橋を焼きはらえ!」との命令を受領。左岸には、まだ1万2千名の落伍兵が残されていた。将軍は午前9時まで彼らの渡河を待ったが、コサック兵が土手からなだれ降りてきたので、ついには死に火がつけられた。まだ左岸に残る8千人の落伍兵は、もはや助けを求める力もなく、焼け落ちる橋をうつろな目で見守っていた。

 このベレジナの戦闘(11月26日~29日)だけで、ナポレオン軍兵力の損失は2万5000人、非戦闘員の死者は3万人に及んだ。もはやヴィルナで態勢を立て直し、ロシア軍を迎え撃つことは不可能であった。また

ナポレオンは10月下旬に発生したマレ将軍のクーデター未遂事件(マレ将軍が、ナポレオンがモスクワで死んだと称して権力の奪取を謀った)も頭にたえず引っかかっていた。ナポレオンは単身パリに帰ることを決心する。ロシア軍の侵攻を防ぐため、また名誉を挽回するために、軍の立て直しが急務であった。12月5日午後10時、ナポレオンは軍の指揮をナポリ国王ミュラーに委ね、6頭立ての寝台車(馬橇を調達)にコーランクールを同乗させ、デュロック将軍、ムートン将軍、秘書ファンなどが乗る幌型四輪車2台とともに、ヴィルナの手前スモルゴノイで夜陰に紛れて軍を離れパリに向かった。

「翌日夜が明けると、軍はすべてを知った。その知らせがどんな作用を及ぼしたことか、言葉に尽くし難い。絶望の極みに達し、多くの兵士が罵詈雑言を浴びせ、我々を捨てたと皇帝を非難した。それは全員の呪いの叫びであった」(ナポレオンの従僕コンスタンの回想録)

 ナポレオンが軍を離れて少数の随員と帰国した事実は、様々な反響を呼んだ。

「敵前逃亡とみなしてそれを非難するものがあれば、フランスを内戦と自称同盟国の侵略から守るにはこの方法しかないと容認する者もいた」(マルボ男爵)

 しかし、それ以上に問題だったのはナポレオンがいなくなった後の軍。それまでナポレオンは、各指揮官に作戦に関して細かい指示を与えすぎた。ある意味で将軍たちはナポレオンのロボットのようなもので、ナポレオンの命令通りに動いていればよかった。「ミュラーとウジェーヌで十分指揮できる」trueお、ナポレオンは断言したが、彼が去った後の大陸軍は、羅針盤を失った船に等しかった。部下にある程度の独断専行を許さなかったのは、ナポレオンの統率力の欠落部分でもあったのである。

イラリオン・プリャニシニコフ「ナポレオン軍の撤退」

ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン「ナポレオン軍の撤退」1812年祖国戦争博物館

アドルフ・イヴォン「モスクワから退却時のネイ将軍」マンチェスター市立美術館

ベレジナ渡河

フェリシアン・ミルバッハ「ベレジナ渡河」

ヤヌアルィ・スホドルスキ「ベレジナ河を渡るフランス軍」ポズナン国立美術館

ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン「フランスからの悪い知らせ」1812年祖国戦争博物館

 モスクワで、クーデター未遂事件を知らされたナポレオン

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