「サン・バルテルミーの虐殺」8 「バイヨンヌ会談」

 1563年9月18日、ルーアンでシャルル9世の成人式が行われた。と言ってもまだ13歳。カトリーヌは事実上の摂政の地位から退くが、もちろん権力は手放さない。彼女は国王の全国巡幸を計画する。若い国王を国民に紹介し、そうすることで忠誠心を掻き立てるためだ。そしてさらには分裂した国民の融和を実現するためである。1564年1月24日にパリを出発した長旅は全行程約5千キロ、1566年5月まで2年数か月にも及んだ。しかしカトリーヌが当初の目的を達成できたとは言えない。特に問題だったのが1565年6月に行われたスペインとの「バイヨンヌ会談」。スペイン王妃となっているエリザベトと7年ぶりの再会を果たすとともに、スペイン国王フェリペ2世代理のアルバ公とユグノー問題について会談がもたれた。スペインが求めるのは、より徹底した異端弾圧。ユグノー派の役人や裁判官の免職、公私を問わぬプロテスタント礼拝の全面的禁止。カトリーヌは耳を傾けたが、答えはしなかった。アルバ公にへつらい愛想のよい笑顔を振りまきながらも、話が要点に入ると巧みに話題をそらせ、異端弾圧について言質を与えることは絶対に避けた。彼女としては何とかやり過ごしたつもりでいたのかもしれない。

しかし、フランスのプロテスタントは、この会談でプロテスタント撲滅の密約が交わされたと誤解し、王家に対する不信感を募らせるこことなってしまう。このバイヨンヌ会談以後、ユグノー派カトリーヌをスペインの共犯者と見なすようになる。そして、このときからユグノーは陰謀を企てたりカトリックを虐殺するのさえも、当然の自衛手段として正当化するようになった。カトリーヌ自身は、バイヨンヌ会談によって自分がどれだけの危険を生み出したのか分かっていなかったが。

平和は長くは続かなかった。フランドルで起こったプロテスタントの反乱を鎮圧しに赴こうとするスペイン軍通過が発端だった。カトリーヌは二重の危険(フランス通過時のスペイン軍の侵略と、フランドルの反乱に刺激されたユグノーの暴発)に備えて、スイスから6千の傭兵を雇うとともに、1万のフランス歩兵も招集し、国境近くの駐屯兵も大量に増やした。しかし、バイヨンヌ会談以来、ただでさえ神経過敏になっているユグノーたちの間に、「カトリーヌが6千のスイス傭兵を用いてユグノー撲滅を計画している」といううわさが流された。ユグノー側の中心コンデ公ルイ(亡きナヴァル王フランソワの弟)とコリニーは、国王シャルル9世とカトリーヌを奪い取るため1567年9月24日、6千の騎兵を従えて宮廷の置かれているモンソーに向かって進軍を開始する。危ういところでアルバ公の特使から急を報じられた宮廷の人々は、恐怖と疲労で難民のような哀れな姿でスイス傭兵隊に守られながらパリのルーブル宮に逃避した。この屈辱的な逃避行を味わわされたカトリーヌの怒りはすさまじかった。彼女は心の底からユグノーを憎んだ。

 今や国王の地位を狙うコンデ公と宮中監督官になりたがっているコリニーの二人の手で第二次ユグノー戦争の戦端が開かれる。もう彼らにとってこの戦争は、国王を不忠者から救い出すためでも、独裁者ギーズを追放するためでもなかった。初めて忠義者の仮面が外され、ユグノーの真の野心があらわにされる。彼らに国王はもう要らない。コンデ公が「信者たちの王」としていれば、それでいいのだ。

 第二次ユグノー戦争の主な戦闘は「サン・ドニの戦い」(1567年11月10日)で、国王軍が勝利したものの司令官アンヌ・ド・モンモランシーが戦死。カトリーヌは、最愛の三男アンジュ―公アンリを国王代理官に据えて国王軍を一手に握らせた。その後、ユグノーはオルレアンとブロワを攻略してパリに迫る。1568年3月にロンジュモーの和議が結ばれたが平和が戻ったわけではない。この休戦のひと時、すでにカトリック側に傾斜しつつあったカトリーヌは、ともに寛容政策を推進してきた大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免する。カトリックは喜び、プロテスタントは不安を募らせる。こうして再び緊張が高まり、1568年8月、第三次ユグノー戦争が勃発する。1569年3月13日の「ジャルナックの戦い」におけるアンジュ―公アンリの華々しい勝利は、スペイン王妃となっていた最愛の娘エリザベトの産褥死の悲しみを一挙に吹き飛ばしてくれる喜ばしいニュースだった。そしてこの戦いでは、ユグノー側にとって致命傷になりかねない出来事が起こった。コンデ公ルイの戦死である。コンデ公を失うことで、ユグノーは王族と言う支柱を失い、王位解放というスローガンのもとで戦うことが不可能になったのだ。それまでは、王族を先頭にいただいていたことが辛うじて名目を保たせていたのだが、今はユグノーはただの謀叛人、ただの異端者の群れに変わろうとしていたのだった。ユグノー側はどうしたか。

シャルル9世の巡幸

アントニス・モル「第三代アルバ公」マドリード リリア宮殿

「コンデ公ルイ」ヴェルサイユ宮殿

ジャン・ド・クール「アンデュー公アンリ」フランス国立図書館

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