「サン・バルテルミーの虐殺」7 「ヴァシーの虐殺」

 「一月王令」でカトリーヌの融和政策は完成されるはずだった。しかしその王令の登録からわずか2週間後の1562年3月1日に起きた突発事件がその望みを打ち砕いた。「ヴァシーの虐殺」である。この日、ギーズ公フランソワは自身の領地への移動中、シャンパーニュ地方のヴァシー(彼の一族の所領のひとつ)に立ち寄りミサに参加することにした。ところが、ギーズ公たちがミサを聞くために入っていった教会のすぐ近くの納屋で、千人近くのユグノーが集会を行っていた。「一月王令」ではユグノーの礼拝は街の城壁外での礼拝が条件とされていたが、この礼拝はそれに反するものであった。その後の事件の詳細については、カトリック側とユグノー側で解釈は分かれている。前者は、カトリック側はユグノーの集会に対して何の手出しもしなかったが、ユグノーが教会の扉の前までやってきてけたたましい声で聖歌を歌ってミサを妨害。静粛を求めたが聞き入れられず。ギーズ公も抜刀し、納屋に戻るように命じたが、石つぶてを投げられる。その一つが公の顔に命中し流血。それを見て怒り狂った部下たちがユグノーの群れに襲い掛かった。後者の解釈では、まず、ギーズ公の手の者たちが、威嚇射撃と暴力とをもって、説教の邪魔をしにきたとするが。被害者数については両者はほとんど変わらない。死者約60名、負傷者100人以上。ただし、ギーズ側は、数名のけが人と1名の死者のみ。虐殺とされるゆえんである。

 いずれにせよ、この事件が契機となり、同年3月末、こののち約40年間に及ぶ宗教戦争の火ぶたが切って落とされた。カルヴァンの生存中に起きたこの戦争には、スイス各地のプロテスタントが援助に赴いた。また、プロテスタントの領袖コンデ公ルイは、イングランド女王エリザベスに援軍を求め、9月にハンプトン・コート条約を結んだ。この条約のことを知った時のカトリーヌの怒りはすさまじかった。なぜか。援助の見返りとしてル・アーヴル、ディエップ、ルーアンの三都市を引き渡すことを約束するものだったからだ。怒り心頭に発したカトリーヌの心は決まった。国を売ろうとする叛徒への断固とした挑戦だ。カトリーヌは自ら1万8千の軍を指揮してルーアンに向かう。そしてルーアンを占拠する500のイングランド軍とユグノー貴族モンゴメリー(騎馬試合でカトリーヌの夫アンリ2世に死の重傷を負わせた人物)率いる駐屯部隊に対して男顔負けの勇気を発揮して見せる。前線陣地で一日中作戦を監視し、敵の砲火にすすんで身をさらす。しかしルーアン方位は至難の業。あるとき国王代理官のナヴァル王が敵の火縄銃で肩をやられた。ただでさえ弱っている兵士たちに、このニュースは想像以上のショックを与え、ナヴァル王は死んだというデマが飛び、彼らは戦闘意欲をなくしてしまう。その場を救ったのもカトリーヌだった。戦うことを拒否する兵士たちの中に自ら赴いて熱弁をふるった。

「今から5年前、ギーズ公が勇敢にもカレの町を占領して、イングランド軍はこのフランスから追い払われました。けれど再び一部の裏切り者が、彼らをこの国に招じ入れたのです。あのイングランド人どもを、このままのさばらせておくのですか?あなた方の国王を、彼らに売り渡してしまうつもりですか?ではあなた方のおっしゃる愛国心とは、嘘いつわりでしかなかったのですか?」

 この強い意志と勇気に満ちたカトリーヌの抗議は、熱狂的な叫びと拍手に迎えられる。そして兵士たちは、永遠の忠誠を誓う言葉を繰り返した。彼女は、ただちに1万発の大砲をルーアンの城壁に向けて発砲することを命じる。そして、10月26日、ついに要塞は陥落した。

 この第一次ユグノー戦争の間に、ユグノー、カトリック両派の首長たちの多くが歴史の舞台から消え去った。ナヴァル王は火縄銃の傷がもとで11月17日歿し、サンタンドレ元帥は12月19日の「ドル―の戦い」(ユグノー戦争で最初の会戦とされる)で死に、コンデ公とモンモランシーはそれぞれ相手方の捕虜となった。さらに、翌年2月18日、カトリック側の劣勢を挽回するためにスペインと手を組もうとしていたギーズ公がユグノー派に襲撃され、2月24日に息を引き取った。こうして、カトリーヌに敵対する最高権力者の内3人が世を去り、2人が捕虜となる。一気に和議へと持ち込むこのチャンスをカトリーヌは逃さない。3月12日、アンボワーズの和議が調印される。フランスは、イングランドとスペインの間で分割されるのを免れた。しかし、その和議に満足しているのはカトリーヌと片腕のロピタル大法官くらいのものだった。

ギーズ公フランソワの暗殺

ギーズ公の暗殺者ポルトロ・ド・メレのグレーヴ広場での処刑

ヴァシーの虐殺

ドルーの戦い

フランソワ・クルーエ「ギーズ公フランソワ」ルーヴル美術館

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