「サン・バルテルミーの虐殺」5 「ポワシーの討論会」
10歳のシャルル9世が即位したことで実権を握ったカトリーヌだが、宗教上の紛争から王国、王権を守ろうと、ギーズ兄弟を完全に見放すことなしにブルボン兄弟に接近しようとする。姪のメアリー・ステュアートが王妃であった時代に権力を持ちすぎたギーズ兄弟を押さえるためにブルボン兄弟、ユグノーとの妥協を進めていく必要がある。しかし、ブルボン兄弟より力がありパリやカトリック陣営の中で人気がより高いギーズ一族とたもとをわかつことはできない。そのかじ取りは困難を極めた。「バランス・オヴ・パワー」こそ、カトリーヌが生涯貫き通した政策だったが、そのやり方のおかげで、彼女は次第に両派の憎しみを一身に受けることになる。
カトリーヌは、宰相となったミシェル・ド・ロピタルとともにユグノーに対する思い切った寛容政策に着手する。1561年1月28日、彼女は全国の高等法院に親書を送り、宗教上の嫌疑で捕らえられている者の釈放と、あらゆる宗教裁判による異端追及の延期を命じる。追放されたユグノーは復帰を許され、奴隷としてガレー船に送られた者も呼び戻された。コンデ公に対する予審も中止された。ナヴァル王は国王代理官として改めて承認され、コンデ公は正式に宮廷に復帰し、ユグノーは宮廷内のコンデ公やコリニーの居室で、自由に説教ができるようになった。カルヴァンでさえ、一時的にはカトリーヌの政策に満足を覚えていた。
「王母がなさねばならなかった譲歩は必ずや素晴らしい結果をもたらすだろう。我々の教会があらゆる地域に伸長していくだろう」
当然このようなユグノーに対する寛容政策は、カトリック側の手強い反動を招かずにはいなかった。4月6日、いわゆる「三頭政治」が誕生する。モンモランシー大元帥、ロレーヌ枢機卿(ギーズ枢機卿、ランス大司教)、アンボン元帥。これは単に、宮廷屈指の実力者の結びつきと言うだけではない。軍隊、聖職者、一般人の三大勢力が、この三人を仲介にして結束したというわけだ。ローマ教皇、スペイン王は強い共感を表明した。三頭政治の執政官たちは、スペイン王フェリペ2世と手を結ぶ。それは、プロテスタントを支援するイングランドのエリザベス女王やルター派の君主たちに対するカウンターパンチだった。フェリペ2世は、カトリックを擁護するため軍を介入させると言ってカトリーヌを脅かす。また5月15日、ランスでの即位式の折、ランス大司教であるロレーヌ枢機卿は、シャルル9世に王冠を授けながらこう言った。
「あなた様に宗派を変えよと忠告申し上げる者は、同時にこの王冠を奪おうとするものだと思し召されよ」
王国の内部に不穏な空気が充満していた。もはや一刻の猶予も許されない。カトリーヌは宰相ロピタルの提案に基づき、新旧教との和解を目指して「ポワシーの討論会」の招集を決意する。彼女はせっせとカルヴァンと手紙を取り交わして、討論会への参加を要請する。その一方で彼女はカトリック側にも手をまわす。ロレーヌ枢機卿を「あなたのさわやかなる弁説で異端の徒を論破していただきたい」とおだてあげ、しぶるギーズ公にはこの会議を開くことを無理やり承諾させる。
9月9日、パリ西方17キロのポワシーで討論会(宗教会談)は開かれた。枢機卿6名、司教40名、ソルボンヌ大学博士12名、聖典学者12名、フランスのプロテスタント神父10名、イングランドのプロテスタント神父1名、ジュネーヴからはテオドール・ド・ベーズ(病気だったカルヴァンは出席せず、彼が改革派側のトップ)にピエール・マルティール、そして一般のプロテスタント20名が集まった。しかし、互いに相手が滅びない限り真の宗教的統一はあり得ない、と思い込んでいるカトリックとプロテスタント双方にカトリーヌの思いが通じるわけもなかった。カトリックは聖別されたパンにイエス・キリストが実在すると主張し、一方プロテスタントはこの教えを否定し、聖別されたパンの中のイエス・キリストの存在は霊的なものであると言って譲らない。9月から10月にかけて繰り返された会談は、両派の教義の違いを調整することも、代表者たちを和解させることもできなかった。それどころか、かえって対立を深める結果となってしまった。
「ギーズ兄弟」ブロワ城 真ん中がフランソワ、右がロレーヌ枢機卿
「ロレーヌ枢機卿」
ミシェル・ド・ロピタル
テオドール・ド・ベーズ
ポワシーの討論会
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