江戸の名所「品川」⑤「北の吉原 南の品川」

 慶長6年(1601)、品川湊の近くに「品川宿」が設置された。日本橋から8キロ。板橋宿(中山道)、内藤新宿(甲州街道)、千住宿(日光街道・奥州街道)と並んで「江戸四宿」と呼ばれたが、旅籠屋数や大名行列の通過数なども他の江戸四宿よりも多く、幕府からも重要視された。この東海道最初の宿場町であり、東海道第一の規模を誇った品川は、「北の吉原 南の品川」と並び称されるように、江戸の遊所として見れば公許の吉原遊郭につぐ施設と品格を持っていた。その賑わいぶりを西沢一鳳『皇都午睡』(嘉永3年【1850】は次のように記している。

「品川宿は東海道の咽首なれば、又陽気なる事此上なし。高縄より茶屋有て(案内茶屋 也)品川宿の中央に小橋有り、それより上は女郎銭店、橋より下は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。・・・女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸・大湊屋など名高し。岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人ども、参宮・金ぴら・ 大山詣り・富士詣、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。」

 恋川笑山の艶本『旅枕五十三次』は、もっとストレートに品川の魅力を表現している。

「五十三次の初宿で、東海道第一の繁華を誇る。旅籠が軒を連ね、家並みは壮麗である。東の方を海側といって二階は海を臨む。はるか安房上総(あわかずさ)の遠山を見晴らす眺めは絶景である。もし、かたわらに美女をおいて宴を催すなら、その一時の楽しみは百年の長寿に匹敵するだろう。ここの宿場女郎(めしもり)はよそと違って、すべて江戸前の上玉であるから、旅客だけでなくえどの酔客の遊び場所となっている。」

 飯盛女という名目で旅籠に遊女を置くことを許されたのは品川が最初で、明和9年(1772)定数500人の飯盛女が認められたが増え続け、天保14年(1843)には、女郎屋94軒、遊女1448人を数えた。


細田栄之「品川の楼上」  海に面しているので開放感が漂っている

豊国「品川の宴」


広重「東海道五十三次之内 品川 日之出」 大名行列の最後尾が通り過ぎようとしている


国貞「東海道五十三次之内 品川之図」 品川らしく遊女(「飯盛女)と大名行列、海がセット

葛飾北斎「東海道五十三次二 品川」

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