江戸の名所「深川」⑧歌舞伎「八幡祭小望月賑」

 明治三十一年東京深川に生まれた伊藤深水(画家)は小唄「辰巳の左褄」も作詞。「辰巳の左褄」とは「辰巳芸者」つまり「深川芸者」のこと。深川は、江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、当地の芸者は「辰巳芸者」と呼ばれた。江戸一番の気風のよさを誇った木場の男たちを常連客とし、それを反映した男勝りの気風のよさを特徴とした。当時女は着なかった羽織を纏い「羽織芸者」とも呼ばれた。「音吉」、「豆奴」、「ぼん太」など男名前を名乗り、薄化粧で身なりは地味な鼠色系統、冬でも足袋を履かず素足のまま。左褄を取り「芸は売っても色は売らぬ」心意気を示した(左手で褄を持てば着物の合わせ目は左。着物の下に身につけている長襦袢の合わせ目は右。したがって、男の手が裾に入りにくくなる)。座敷への往復にも、ボディーガードの役目もあった箱屋(箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者)ではなく女に三味線箱を持たせた。これが「辰巳の左褄」こと深川芸者。

 こんな艶っぽさと男勝りの気風のよさを兼ね備えた辰巳芸者「美代吉」を主人公とする河竹黙阿弥作の芝居が「八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)」(通称「縮屋(ちぢみや)新助」又は「美代吉殺し」)。1807年(文化4),深川の八幡祭の際,人出の多さに永代橋が落ちた事件と,1818年(文政1)本郷の呉服屋甚之助が深川芸者みの吉を殺した事件を脚色。あらすじはこうだ。

  深川八幡の祭礼の日(8月15日)、越後から行商に出て来た縮屋新助が、土地のごろつきに絡まれて困っているところを仲町(深川には7カ所の岡場所があったが、仲町はそのひとつ)の芸者美代吉に助けられる。美代吉は祭りの山車を見に行くが、永代橋が落下。小舟を出して様子を見に行った新助は落ちてきた美代吉を助ける。新助は美代吉に一緒になってくれと口説く。美代吉には言い交わした穂積新三郎という浪人がいた。新三郎は、失われた主家の家宝の壺を探して浪人をしていたのであるが、もともと「おきし」という許婚がいて、家宝の壷を探し出し主家への帰参がかなえば「おきし」と結婚することになっていた。新三郎が探している家宝の壷は、おきしの兄が苦心の末探し出す。しかしその壷を手に入れるには、五十両が必要。すると新助がその五十両は私に出させてくれという。受け取った五十両を美代吉は新三郎に渡すが、「おきし」が美代吉と新三郎の仲を知り、尼になるという。新三郎は「おきし」への義理立てから美代吉に向かって、この金はお前が新助に体を売って作った金かと、美代吉に愛想づかしをする。美代吉は、新助が出した五十両を新助に突き返し、満座の中で新助に恥を掻かせる。裏切られたと知った新助は、五十両の金で妖刀村正を求め、洲崎の土手に美代吉を呼び出し斬り殺す。しかし、美代吉の守り袋の中から美代吉が長い間探していた実の妹であることがわかって新助はその刀で喉を突いて自害。

 実直な田舎者の新助が都会の辰巳芸者の魅力にひかれて破滅する過程を鋭く描いた生世話(きぜわ)物の傑作である。

(国貞「吾妻源氏 辰美の秋月」)

(国貞「当時高名会席尽 深川 平清」)左褄をとる深川芸者

(国貞「芸者みよ吉 穂積新三郎」)

(国貞「芸者みよ吉 越後新助」)

(広重「洲崎の秋月」)  美代吉殺しの舞台となった洲崎の土手








 

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