江戸の名所「深川」⑦洲崎弁天社

 江戸についてあまり詳しくなかった頃のこと。「洲崎潮干狩り」とタイトルがついた浮世絵を見て、それが「品川洲崎」なのか「深川洲崎」なのか判別できなかった。今はたいてい区別できる。それは深川洲崎を描いた絵には立派な堤防と広大な空き地が描かれているからだ。

 寛政3年(1791)9月3日~4日にかけて猛烈な高潮(津波)を洲崎一帯を襲った。洲崎弁天堂は大破。付近にあった三百数十軒の家屋はことごとく流され、多数の死者、行方不明者を出した。幕府はすぐに手をうつ。付近一帯の土地を買い上げて居住を禁じ、津波警告の碑「波除碑」(なみよけのひ)を空地の東西両橋(洲崎弁財天社の門前と平久橋西詰北側。どちらも現存する)に建てた。その碑にはこう記されていたという。

「葛飾郡永代浦

 此所寛政重三年波あれの時、家流れ人死するもの少なからず。此後高なみの変ハかりかたく流死の 難なしといふべからず。是によりて、西ハ入舟町を限り、東ハ吉祥寺前に至るまで、凡長弐百八拾五間余りの所、家居とり払ひ、あき地になしをかるゝもの也築地    寛政六年甲寅十二月 」

 広重の「名所江戸百景」の中でも特に有名な「深川洲崎十万坪」。鳥の視点という驚くべきヘリコプターショットで描かれた俯瞰図。印象派をはじめ多くのヨーロッパの画家たちが刺激を受けたのもうなづける。ところで「十万坪」とは、千田庄兵衛が木場の北東隣りの海岸の湿地帯を、江戸中の塵芥で埋め立てた土地(享保8年【1723】)で後に「千田新田」と呼ばれた場所。広重がこの絵を描いた当時、当然洲崎弁天社当然再建されていたにもかかわらず、木場の木材群は描いているが弁天社はいくら目を凝らしても見当たらない。そして、海に浮かぶ奇妙な桶。死体が入った棺桶だろう。鳥が狙っているのがその中の遺体かどうかはわからない。広重は、寛政3年(1791)の津波の惨劇に想いをはせながらこの絵を描いたに違いない、「江戸名所図会」の一枚として。悲惨な体験をこういうかたちで伝える方法もあるのだと広重は教えてくれる。

(広重「江戸名所 洲さき弁天之社 海上汐干狩」)深川洲崎

広い空き地と参詣人の足で踏み固められていった防波堤

 (広重「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」)

よくみると、ちゃんと「波除碑」が描かれている

(広重「洲崎の秋月」)深川洲崎

(広重「東都八景 洲崎晴嵐」)深川洲崎

(広重「名所江戸百景 深川洲崎十万坪」)

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