ヨーロッパの夏空の下10 ウィーン美術史美術館②セバスティアーノ・リッチ「ゲッセマネの祈り」
キリスト教という宗教は、イスラム教やユダヤ教など他の一神教と比較してわかりづらい。その根本的な理由は、唯一絶対の創造主とともにイエス・キリストという人間の肉をまとった神の子が存在するからだろう。彼は、人間が背負っている罪を免れているし、死人を生き返らせるなど神を通して神の権能を行使できるが、それ以外の点においては人間と全く同じように悩み、苦しむ。だから、最も過酷な死刑の執行法である十字架刑を目前にして、ゲッセマネの園で祈るイエスの苦悩は万能の神の姿ではなく十字架上の死を運命づけられた一人の人間の苦悩の赤裸々な姿なのだ。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕(ルカによる福音書22章42~44節)
この時イエスは三人の弟子(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ)と共にいたが、彼らはイエスの「誘惑に陥らないように祈りなさい」の言葉にも関わらず眠りこける。イエスの深い孤独。それでも自分の運命に従わなくてはいけない。もちろん、十字架上の死のあとに復活、昇天することもわかっているから。そしてキリスト教は、現世で苦しむ人々に、神の子イエスを救世主と信じ、人間の罪を贖うために十字架上で死にそして復活されたことを信じれば、罪を背負ったまま永遠の命を得ることができる、と教える。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(「ヨハネによる福音書」3章16~17節)
今回観たセバスティアーノ・リッチの「ゲッセマネの祈り」。物足りなさはあるが、立ち止まって人間イエスの苦悩に想いをはせさせるだけの力は備えている。
(ルーベンス 「キリストの哀悼」ウィーン美術史美術館)
(アントン・ファン・ダイク「キリストの哀悼」ウィーン美術史美術館)
(アントン・ファン・ダイク「キリストの磔刑」ウィーン美術史美術館)
(セバスティアーノ・リッチ「ゲッセマネの祈り」ウィーン美術史美術館)
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