「ウィーン」18 ベートーヴェン⑤「不滅の恋人」

 1809年5月にウィーンを砲撃し入場したナポレオン軍は、7月のワグラムの戦いにも勝利し、オーストリアは10月のシェーンブルクの和約で広大な領土(人口400万人=全人口の6分の1)を割譲させられた。フランス軍の占領下で、ウィーンでは物も食糧も不足し、インフレが進行した。当時の苦しさをベートーヴェンはブライト・コプフ・ヘンテル社宛の手紙(1809年7月28日)の中でこう書いている。

「私たちはここのところ、絶え間なくひどい苦しみを味わってきました。つまり、5月4日このかた、ときおり手をつけた断片を別にすれば、まとまったものを何一つ書いていないのです。[ウィーン占領をめぐる]ことの経緯は私に、肉体的にも精神的にも大変なショックを与えています。・・・・・本日をもって、ここでも軍税が課されるようになりました。――私はいま、この上なく破壊的で荒涼とした生活に取り巻かれているのです。ここにあるのはただ、軍隊の太鼓と大砲の音、そして人類のあらゆる種類の苦しみだけです」

 それでもこのような状況下で、ベートーヴェンはピアノ協奏曲第5番「皇帝」(ベートーヴェンが名付けたわけではないし、ベートーヴェン自身が「皇帝」を想起しつつ作曲を進めていたとは考えがたい)を完成させている。それは豪壮闊達で暗い影、絶望的な嘆きなど微塵も感じられない。  その後オーストリアとフランスとの緊張関係は、翌年意外な転換を見せる。皇后ジョゼフィーヌと離婚したナポレオンが、オーストリア皇帝フランツ2世の長女マリー・テレーズを妃に迎えたからである。その結果、久しぶりの平和がオーストリアに訪れた。しかし経済危機は改善されず深刻化するばかり。

 1811年に入ると、2月2日には従来の貨幣価値を切り下げて新しい貨幣にかえるという財政特例が布告され、3月15日から実施。新旧通貨の比は1対5。そのためベートーヴェンの年金4000フローリンは5分の1の800フローリンになってしまう。そのうえ、年金支払人の一人ロブコヴィッツ侯爵が宮廷劇場の経営困難を背負って私財をつぎ込み過ぎたために、破産。そのためベートーヴェンへの支払いも1811年9月で一時打ち切られる。さらに、もう一人の年金支払人キンスキー侯爵は1812年11月3日、落馬が原因で急死。ベートーヴェンの経済的苦境は続く。それでもかれは1812年、交響曲第7番と交響曲第8番を作曲している。

 この1812年という年はベートーヴェンに大きな影響を及ぼした二人の人物との出会いがあった年だ。一人はあの文豪ゲーテ。ロマン・ロランが「二つの太陽たるベートーヴェンとゲーテの邂逅」と呼んだ出会い。ベートーヴェンはその時の印象を興奮気味にこう記している。

「あの偉大な人は、どんなに辛抱強く私の相手をしてくれたことでしょう!その時、そのすべてが、どんなに私を幸せにしてくれたことか!あの人のためなら、私は十度でも死ぬことができたでしょう。」

 しかしそれ以上に大きかったのは「不滅の恋人」。ベートーヴェンの死後にその遺品の中から発見された宛名不明の三通の情熱的な恋文のなかでベートーヴェンがそう呼んだ女性。この女性が誰であったかこれまで無数と言ってもいい推理がなされてきたが(おそらくアントーニエ・ブレンターノだろうが)、あまりそのことに関心はない。関心があるのは、その恋人との恋愛と失恋を通してベートーヴェンが深刻なスランプに陥ったこと、そしてそこからどのように彼が這い上がり、苦悩を突き破って第9交響曲を完成させたかのプロセスである。いずれにせよ、彼の人生において最高の恋愛であり、最高に幸福な時間を味わったひと時だったのだろう。その手紙の一部を抜粋する。

「七月七日、おはよう ― ベッドの中からすでにあなたへの思いがつのる、わが不滅の恋人よ、運命が私たちの願いをかなえてくれるのを待ちながら、心は喜びにみたされたり、また悲しみに沈んだりしています ― 完全にあなたといっしょか、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない。・・・・・ ・・・・・ いっしょに暮らすという私たちの目的は、私たちの現状をよく考えることによってしかとげられないのです・・・・・私を愛し続けてください―あなたの恋人の忠実な心を、けっして誤解しないで。

永遠にあなたの

永遠に私の

永遠に私たちの 」

(ゲーテ 70歳)

(アントーニエ・ブレンターノ)

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