「ウィーン」17 ベートーヴェン④「傑作の森」

 1804年に完成した「英雄」以降の10年間に産み出された作品群を、ロマン・ロランは「傑作の森」と賞しているが、ベートーヴェンにとってのこの10年間は決して平穏な時代ではなかった1804年以来不穏な動きにあった戦況はついに1805年11月、フランス軍のウィーン占領という最悪の事態に至った。夏から秋にかけてようやく完成させた『フィデリオ』(貞淑な妻としての理想的女性像を描く物語だが、その一方で、圧政に苦しむ民衆が悪に立ち向かい、高貴な精神をもつ正義が勝利を得るという理想主義をその底流に置くもので、いわばベートーヴェンの自由主義的英雄精神をもっとも端的に表した音楽)【第1稿】を初演する五日前の11月15日には、ナポレオンがシェーンブルン宮殿を占領し軍司令部とした。主だった音楽愛好家たちは戦火を避けてウィーンを離れていた。20日から3日間上演された『フィデリオ』は失敗に終わったが、その原因の一つは聴衆の多くがドイツ語の分からないフランス兵士たちであったことが関係している。

 しかし、親友たちに説き伏せられ改作した『フィデリオ』【第2稿】は、こんどはウィーン市民を聴衆として1806年3月29日に上演されたがまたもや失敗。 また、この年の半ば頃、ウィーン時代の初期から厚遇を受けてきた大パトロンリヒノフスキー侯爵と不仲になっている。事情はこうだ。この年の夏から秋にかけて、ベートーヴェンは、現在のチェコ領シレジアのグレーツにあるリヒノフスキーの館に滞在していた。当時そこは、フランス軍の進撃路、補給路になっていた。ある日、館に立ち寄ったフランス軍将校を親フランス派の侯爵は愛想よくもてなし、ベートーヴェンのピアノ演奏で場を盛り上げようとして、彼に演奏を要求。応じようとしないベートーヴェンに侯爵に脅迫的な言葉まで口にする。ベートーヴェンは、一通の手紙を残して憤然と飛び出す。

「侯爵よ、あなたが侯爵であるのは、偶然と生まれによってだ。私が私であるのは、私によってそうなのだ。侯爵はこれまで数千人もいたし、これからも存在するだろう。しかしベートーヴェンはこの私ただひとりしかいない。」

 1807年、ベートーヴェンは自作品による演奏会を開いて、前年のオペラの失敗で失っていた自信と名誉の回復を図る。この演奏会はかなり大きな反響を呼び、いくつかの新聞が記事として取り上げるほどだった。そして、「運命交響曲」と「田園交響曲」完成の年である1808年を迎える。しかし、この二つの大交響曲とピアノ協奏曲、「合唱幻想曲」という大曲4曲を含んだこの4時間に及ぶ真冬の夜の大演奏会は惨憺たる失敗に終わる。練習中におけるベートーヴェンと楽団員たちとの衝突によって、十分な練習がなされなかったことが原因のようだ。こうしたこともあって、ベートーヴェンは次第にウィーンに嫌気がさしてくる。この演奏会に先立つ10月頃にヴェストファーレン国王から宮廷楽長として招請を受けていたが、それを受諾する決意をする。

「・・・あらゆる策略と陰謀と卑劣な行為のために私は故郷を去ることになりました。ヴェストファーレン国王陛下の招きを受け、金貨600ドゥカーテンの念棒の楽長としてその地に参ることになりました。」(1809年1月7日付ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社宛手紙)

 これを知って驚いたのはウィーンの音楽愛好貴族たち、特に当時ベートーヴェンが間借りしていた家の主、エルデディ伯爵夫人。夫人はさっそくベートーヴェンを理解する有力な貴族たちを集めて、彼をウィーンにとどまらせる方策を練った。その結果、彼の想像力豊かな才能が生計の苦労によって妨げられないように、三人の有力貴族が終身年金4000フローリン(ルドルフ大公1500フローリン、ロブコヴィッツ侯爵700フローリン、キンスキー侯爵1800フローリン)を支給することになり、これを条件にベートーヴェンはウィーンに止まることになった。この契約が成立したのは1809年3月1日のことである。

 これによってベートーヴェンのウィーンでの生活にも張りが出てきたが、5月には政情は急転直下。フランス軍によるサイドのウィーン攻撃、ついで7月までの3カ月に及ぶ占領。しかし、この支援も長くは続かない。

 (ナポレオンによるウィーン砲撃)1809年5月11日午後9時 ~ 翌朝2時半 フランス軍が一斉砲撃

(1683年 ウィーン鳥瞰図)ベートーヴェンの時代もほぼこれと同じ

(ダヴィッド「書斎のナポレオン」1812年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー)

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