「ウィーン」16 ベートーヴェン③「ハイリゲンシュタットの遺書」

世に言う「ハイリンゲンシュタットの遺書」とは1802年10月6日と10日の日付を持つ2通の封書。「私は喜びをもって死に向かって急ぐ」と書かれたのを見ると、自殺の意図が読み取れそうだが、決してそれは死にゆく者の言葉ではない。「みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。」と書いた直後にこう記しているからだ。

「私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。」

 さらにこうも書いている。

「お前たちの子らに徳性を薦すすめよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験からいうのだ。惨めさの中でさえ私を支えて来たのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。」

 確かに遺書ではあるだろう。しかし、それはこれから自殺しようとする者が書いた遺書ではなく、自分が病弱で早く死ぬのではないかと思っていたベートーヴェンが、後に残る弟たちに書いた遺書なのだ。難聴による自殺の誘惑、生命の危機はその克服を宣言している。だからこそ、1802年5月から半年に及ぶハイリゲンシュタット滞在を終えてウィーンに戻ったベートーヴェンは、想像力を爆発させ次々と傑作を完成させてゆく。

  1802年  ピアノ・ソナタ「テンペスト」、交響曲第二番 

  1803年  ヴァイオリン・ソナタ「クロイツェル」

  1804年  ピアノ・ソナタ「ヴァルトシュタイン」、交響曲第三番「英雄」

  1805年  ピアノ・ソナタ「熱情」 オペラ「フィデリオ」(第1稿)

  1806年  弦楽四重奏曲「ラズモフスキー第1番~第3番」、「フィデリオ」(第2稿)

        交響曲第四番

  1808年  交響曲第五番「運命」、交響曲第六番「田園」

  1809年  ピアノ協奏曲第五番「皇帝」

  1810年  ピアノ・ソナタ「告別」、「エリーゼのために」

  1812年  交響曲第七番、交響曲第八番 

 ところで、ベートーヴェンの聴覚障害についてだが、彼が外の世界との聴覚的な接触を次第に立つようになり、つらい孤独感を招き、彼の中に前からあった人間嫌いで疑い深い性質を助長したことは確かだが、決してそのようにマイナスの作用をしただけではない。1802年以降の「傑作の森」と呼ばれる傑作群の誕生とも密接にかかわっているのだ。聴覚障害は、作曲家としての彼の能力を弱めることはなかったばかりか、時には高めさえしたのだ。なぜそんなことが起こりえたのか?第一に、それまでベートーヴェンは、創造性の表現として作曲とともにピアノ演奏を行っていたが、後者が排除されることによって作曲に専念できるようになった。第二は、次第に聴覚的に閉ざされた世界に住むことによって作曲にすべてを集中することが可能になったこと。耳の聴こえなくなった世界で、ベートーヴェンは外部の邪魔な音から解放されて、新しい形式を実験的に試みることができた。さらに、俗世間の制約からも解放され自由になった。「本質的な素材を自分の願望に合わせて、以前であれば考えもつかなかったような形式や構造に結び付けたり、さらにそれらを再構成したりすることが可能になったのである。」(メイナード・ソロモン『ベートーヴェン』)

 もちろん、かれがあくまで快癒の希望にすがり、自分の運命を呪っている限りそれは不可能だった。存在の危機を通じて、自らの使命を自覚し、運命を受け入れるという精神的清算が必要だったのであり、「ハイリゲンシュタットの遺書」は過去との決別、新たな生の力強い決意表明の書なのだと思う。

 (「ベートーヴェン」ハイリゲンシュタット公園)

(ハイリゲンシュタットの風景 1825年頃)

(「ハイリゲンシュタットの遺書」)

(ヒューゴ・ハーゲン「ベートーヴェン」)

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