「ウィーン」15 ベートーヴェン②光と陰

 1792年11月、22歳のベートーヴェンはウィーンに定住しようとして出てきたわけではない。ボンの宮廷楽団員として1年間ウィーン留学をケルン選帝侯から命じられたためだった。当時のケルン選帝侯はマクシミリアン・フランツ。マリア・テレジアの末っ子(第16子)、ということは啓蒙専制君主ヨーゼフ2世の弟。あのマリー・アントワネットの1歳年下の弟でもあった。1784年にボンに登場した彼は、兄ヨーゼフ2世の思想を地方でも広めようと、様々な改革に取り組んだ。しかし、1792年4月にフランスとオーストリアの戦争が始まり、ライン川周辺へのフランス軍の侵攻が頻繁となる中で、ベートーヴェンへの留学費用も1794年3月で打ち切られる。その年10月にはマクシミリアンはボンを脱出し、フランス軍に占領されたその地に再び戻ることはなかった。こうしてボンの宮廷は消滅。ということは、ベートーヴェンも宮廷音楽家の肩書を失ってしまった。1787年、17歳の時に母を亡くしていたベートーヴェンは、ウィーンに出てきた1カ月後の1792年12月18日に父を亡くし、94年にカール、95年にヨーハンと故郷から二人の弟も呼び寄せていた。文字通りベートーヴェンは故郷を喪失。新天地ウィーンで自らの力で人生を切り開くしかなくなったのだ。

 名演奏家のひしめく当時のウィーンにあって、ベートーヴェンが注目を浴びたのはピアノ演奏。その頃ウィーンで流行していたのは、モーツァルトに代表される優雅で滑らかで軽快なチェンバロ奏法。しかし、ベートーヴェンはまるで違った。圧倒的な力、情熱、感情表現によって、それまで誰も表現したことのない世界を現出させた。その真骨頂は即興演奏で発揮された。貴族の館でしばしば開かれた即興競演で、ベートーヴェンはウィーンの名ピアニストをことごとく打ち破ってゆく。こうして彼は音楽を愛好する有力な貴族(ロプコヴィッツ侯爵、シュヴァルツェンベルク侯爵、ヴァン・スヴィーテン男爵など)にかわいがられるようになり、上流社会での交流の輪は急速に広がっていった。また、1795年3月には、はじめてブルク劇場の航海チャリティー演奏会に出演しウィーン市民の前にデビュー。「悪魔の指を持つ」と噂されたベートーヴェンの存在はたちまちウィーンの楽壇の隅々にまで知れ渡った。出版社からも作品の出版依頼が次々に来るようになる。さらに、1796年2月には5カ月間のベルリンへの演奏旅行に出発し、プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム2世の宮廷で数回御前演奏を行った。途中のプラハから2月19日にこんな手紙を弟ヨーハンに書いている。

 「弟よ。ぼくがいま、どこで何をしているかだけでも、とにかく書き送っておこう。何よりもまず、ぼくは好調でとても元気だ。自分の芸術が、友人たちや尊敬を私にもたらしてくれる。これ以上、何を望むことがあろうか。それに今回は、相当の収入もありそうだ。ここにあと数週間いて、それからドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンへ旅するつもりだ。」

 こうしてウィーンに定住した1793年からの数年間、ベートーヴェンの成功はまさに破竹の勢いだった。しかしそんな華やかな人生は10年と続かなかった。過酷な運命が待ち構えていた。音楽家にとって致命的な耳の病気、難聴。それまで誰よりも優れた聴覚を持っていると自負していたベートーヴェンにとって、それがどれほど大きなショックだったことか。どれほどの恐怖、絶望感に襲われたことか。1802年10月6日にハイリゲンシュタットにおいて、甥であるカールと弟のヨハンに宛てて書いた手紙(通称『ハイリゲンシュタットの遺書』)のなかでこう綴っている。

 「他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へ曝さらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。・・・」たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。」

 しかしベートーヴェンは、その精神の剛毅さでこの苛酷な運命にも耐え、絶望を乗り越えてゆく。

 (ハイリゲンシュタット ベートーヴェンの散歩道 記念碑)

(「ハイリゲンシュタットの遺書」の家)

(ベートーヴェンが使用した補聴器)

(マックス・クリンガー「ベートーヴェン」ライプツィヒ造形美術館)

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