「ウィーン」14 ベートーヴェン①
モーツァルトとベートーヴェンがウィーンに来て定住を始める年は、11年しか離れていない。モーツァルトが1781年3月(25歳)、ベートーヴェンが1792年11月(22歳)。しかし、この間には、ウィーンの音楽環境、文化環境を決定的に変える出来事が起きている。1789年7月フランス革命勃発、1790年2月ヨーゼフ2世逝去、1792年4月フランスがオーストリアに宣戦布告。モーツアルトはウィーン滞在の大半を開明的な啓蒙専制君主ヨーゼフ2世治下で過ごした。その頃のウィーの市民生活には明るく健康な雰囲気が漂っていた。しかしそのヨーゼフが亡くなり、レオポルト2世(1790年―1792年)を経て、フランツ2世が統治するようになる。フランツは、ヨーゼフ2世とは全く反対の立場に立ち、自由主義を敵視し、フランス革命の影響からオーストリアを護ろうとした。そのため、ヨーゼフh2世の思想に従って新しい改革に身を捧げた人たちを職から追放し、あるいは逮捕投獄、さらには死刑にしたりして弾圧した。ヨーゼフ2世の教育係だったリードルのような人物まで終身刑にして獄中死させた。ウィーンはいまや反動のるつぼと化し、大きな声でしゃべることもできない暗く陰鬱な空気のただよう街に変貌していた。ベートーヴェンはボンの旧友の一人に当時のウィーンの情勢を次のように報告している(1794年8月2日付)。
「当地では、様々な重要人物が逮捕されています。革命が起こりそうだったといわれています―――しかしオーストリア人は黒ビールとソーセージの一片があるうちは、革命なんかやらないと僕は思っています。市壁の外に通じる門はすべて夜10時には通行止めになるという話です。兵隊たちは実弾をこめています。ここでは大きすぎる声で話してはいけません。でないと警察にひっぱられます。」
こういう情勢のなかに、ベートーヴェンは飛びこんできたのだった。ベートーヴェンは剛毅な性格で、思想的に新しい事由の精神を体得した人間。1793年5月22日付けでニュルンベルクの友人に出した手紙の中で、自分の信条をこう記している。
「善をできるだけ行い 自由をすべてにまして愛し 真理をたとえ王の前に出ても談じて否定しない」
これはフランス革命の自由・平等・友愛のスローガンと同じ響きをもつ革命的内容。こんな人間が、ヨーゼフ2世の影響を根絶やしにしようとしているフランツ統治下のウィーンにのりこんだことになる。ヨーゼフ2世の時代なら、そしてそれがもっと長く続いてくれたなら、ベートーヴェンは周囲からも歓待され理解され、つまらぬ俗世界との不協和音など全く問題にせずに、仕事に専念できたに違いない。しかし現実はその反対だった。ウィーンはいまや反動の街であり、皇帝フランツを先頭にハプスブルク一家やそのとりまきの大部分の貴族たちが、ベートーヴェンの思想と生活に好意を持つどころか、それを敵視して反対する立場に立っていた。
それでも少数ながら味方もいた。皇帝一家では、在位わずか2年だった皇帝レオポルト2世の末っ子ルドルフ大公(ルドルフ・フォン・エスターライヒ)。彼はベートーヴェンに師事し、自らも演奏・作曲をし、そして、ベートーヴェンと師弟・パトロンといった関係を超えて生涯の友人となったが、病弱で若干43歳で亡くなっている。ベートーヴェンは彼の生前に、多くの曲を献呈している(ピアノ協奏曲「皇帝」、ピアノ・ソナタ「告別」、「ミサ・ソレムニス」など)。また啓蒙貴族も少数ながらベートーヴェンの味方だった。彼らは頭の中ではものごとを合理的に考えることのできる自由主義者だったが、その生活の根は地主であり、農民の搾取の上に生きている存在だから、ベートーヴェンの生き方のすべてに共感できたわけではない。それでも、ベートーヴェンがウィーンに出てきてからの数年間は、彼を支持する開明的な貴族がかなりいて彼を助け、活動を励ました。こうしてウィーンでのベートーヴェンの生活がスタートする。
(皇帝フランツ2世 1832年 )部分
(皇帝フランツ2世 1832年 )全体
(ホルネマン「ベートーヴェン」1803年)
(ルドルフ大公)
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