「ウィーン」13 モーツァルト⑤ 晩年

「ウィーン」13 モーツァルト⑤  『ドン・ジョヴァンニ』は、プラハでの初演から半年後の1788年5月になって、ようやくウィーンでも上演されたものの、反響は期待したほどではなかった。ヨーゼフ2世もこう評したとされる。

「素晴らしいオペラだ。ひょっとすると『フィガロ』より良くできているかもしれない。しかし我がウィーン人たちのやわな歯に向く料理ではなかろう」

 この評言をダ・ポンテから聞かされたモーツァルトはこう答えたと言う。

          「せいぜい時間をかけてよく噛んでもらうさ」

 しかしこの年の暮れの上演を最後に、『ドン・ジョヴァンニ』はモーツァルトの生前、ウィーンで二度と上演されることはなかった。

 この年の夏、有名な三大交響曲(第39番~第41番「ジュピター」)もたて続けに作曲された。おそらく予約演奏会で披露するつもりだったのだろうが、その機会はついに訪れなかった。この頃のモーツァルトの生活は窮乏に瀕し、借金生活を続けていた。妻のコンスタンツェは絶え間なく妊娠し、生まれた子どもは次々に死んだ(4男2女をもうけたが、そのうち成人したのは、カール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡)。体調を崩し、精神が不安定になっている妻のために、薬代と湯治の療養費用を稼ぎださなければならない。しかし、家計を潤してくれるような音楽の注文が来なくなったし、ピアノ協奏曲にも聴き手が集まらなくなった。それでも1789年8月、2年ぶりで『フィガロの結婚』が上演されその成功がきっかけとなって、皇帝から待望のオペラの仕事を依頼される。今度も台本はダ・ポンテ。このオペラ・ブッファ『コシ・ファン・トゥッテ(女はみんなこうしたもの)』は1790年1月26日、ブルク劇場で初演され一応の成功を収める。しかしその1カ月後不幸な出来事が起きる。2月20日、モーツァルトのオペラに好意的で、陰に陽に引き立ててくれた皇帝ヨーゼフ2世が死去したのだ。新たに即位したレオポルト2世は、劇場や音楽への関心は薄かった。ダ・ポンテもウィーンを去ることを余儀なくされる。10月、新帝レオポルト2世の戴冠式がフランクフルトで行われることになったが、派遣されたのはサリエリを初めてする十数名の音楽家。その中にモーツァルトの名前はなかった。多額の借金をし、銀の食器まで質入れして費用を捻出し、個人で随行するも何の成果も上がらない。借金だけが残る。

 こうしてモーツアルト最後の年1791年をを迎える。この頃モーツァルトは人生に疲れ切っていた。原因は経済的な逼迫や妻子への心配だけではなかった。コンスタンツェとの結婚が原因で、姉ナンネルとの関係も冷え切っていた。亡き父に対しては、その終生の願望を実現できなかった罪悪感、裏切りまでしたという後悔の念がモーツァルトを苦しめ続けた。父レオポルトは、遺書の中でもモーツァルトを許していなかった。このようモーツアルトに、仕事が津波のように襲いかかる。4月半ば、10年来の友人シカネーダーから『歌劇 魔笛』の作曲依頼。ほぼ完成というところまで書きあげていた7月にはプラハの宮廷から急ぎの祝典劇『歌劇 皇帝ティートの慈悲』の注文。レオポルト2世が、ボヘミア王としての戴冠式をプラハで挙げることになり、祝賀のためのオペラが必要になったためだ。さらに、同じころ、灰色の洋服を着た見知らぬ男から、匿名で『レクイエム』を依頼される。

 『魔笛』は9月に完成し、初演はフライハウスというシカネーダーの経営する芝居小屋で行われた。フリーメーソンの秘儀を作曲手法に取り入れ、その思想と信条を台本と音楽で象徴したこの作品は、錯綜した筋書きにもかかわらず、何より音楽の美しさでウィーンの聴衆を魅了した。この成功は、モーツァルトが未だかつて経験したことがなかったような、圧倒的な、そして何か全く新しい手ごたえを感じさせるものだった。貴族中心の取り澄ました宮廷劇場とは違って、シカネーダーの芝居小屋には、楽しみを求める街の人々が続々とつめかけてきた。モーツァルトは『魔笛』によって、ついにウィーンの広範な一般市民を聴衆に獲得したのである。1789年に始まったフランス革命は、この年の6月20日の国王一家のヴァレンヌ逃亡事件をきっかけに共和政に向かって動き始める。時代は大きく変わろうとしていた。しかし、モーツァルトはその時代の変化を十分に享受することなくこの年の12月5日息をひきとる。享年35歳だった。

(『魔笛』)

(『魔笛』)

 (『魔笛』でパパゲーノを演じるシカネーダー)

(モーツァルトの肖像 1789年)

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