「ウィーン」12 モーツァルト④『ドン・ジョヴァンニ』
モーツァルトにとって、プラハほど好ましい街はなかった。人々の温かいもてなし、多額の報酬、そしてなによりも、熱心に耳を傾けてくれる聴衆。さらに夢と希望に満ちた日々は続く。『フィガロの結婚』の輝かしい成功を受けて、プラハの腕利きの劇場支配人パスカーレ・ボンディーニが新作を依頼してきたのである。これまでの相性の良い共同作業から、モーツァルトは再びダ・ポンテに台本執筆を依頼。ダ・ポンテも極めて的確に、当時最も人気の高かった「ドン・ファン」を選ぶ。当時この物語は、最新流行の戯曲として一世を風靡していた。こうして、この二人のコンビでなくては絶対に生み出すことのできない人間ドラマ『歌劇 ドン・ジョヴァンニ』の脚本書きと作曲がスタートした。ドン・ジョヴァンニとは、架空の色事師ドン・ファン(ドン・キホーテと並んで、ルネサンス期のスペイン文学が創り出した二大個性)のイタリア語読み。ドラマは主人公による騎士長(ドンナ・アンナの父)の殺害をもって始り、主人公の地獄落ちをもってクライマックスに達する。死で始まり死で終わる劇。しかし、このオペラを悲劇と呼ぶわけにはいかない。従者レポレッロのような登場人物が、喜劇的な要素を多分にもたらしているうえ、何より最後の最後は一応ハッピーエンドで終わる劇だからだ。悲劇と喜劇、真面目と滑稽、旋律と笑いが混じり合い、明と暗、現実と超現実、生と死が共存している二重性の劇空間。田辺秀樹はこう評している。
「みなぎる躍動感、迫真の描写力、劇的ダイナミズム、エロスの限りない魅惑、気品。とりわけドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、ツェルリーナという三人の女たりの鮮烈な性格付け、宴会の場面の絢爛豪華な趣向、そしてあの、ドン・ジョヴァンニが石像の騎士長と対決する夜の墓場の場面の、魔神的(デモーニッシュ)な情念のすさまじい凝縮・・・・・これら全体が与える圧倒的な感銘の前には、どんな最上級の形容詞も無力である。」
1787年10月29日に初演された『ドン・ジョヴァンニ』は、プラハでの『フィガロの結婚』の上演を越える圧倒的な成功を収めた。「プラハ郵便新聞」はその様子をこう伝えている。
「音楽ファンも音楽家も、これはプラハで前代未聞のオペラだと絶賛している。モーツァルト氏は自ら指揮棒を振った。彼が指揮台に立つと、3回にわたって大喝采が巻き起こり、退場の時も同様の歓呼を浴びた。常ならぬ大観衆が、こぞって喝采を惜しまなかったのである。」
ウィーンにいたダ・ポンテもプラハのオペラ座支配人から絶賛の手紙を受け取る。
「ビバ、ダ・ポンテ!ビバ、モーツァルト!興行主も出演者も大満足だ。何しろ二人が生きている限り、劇場には貧乏神の付け入る隙がないというわけだ。」
ところでロレンツォ・ダ・ポンテは、当時最も謎めいた人物の一人だった。1749年ヴェネツィアでユダヤ系皮革業者の息子として生まれるが、やがてカトリック教徒となり、司祭を務めるが、放蕩生活を送ったために1779年にヴェネツィアから追放。ウィーンに移住したダ・ポンテは、アントニオ・サリエリの口利きによって台本作家としての能力を認められ、ヨーゼフ2世の宮廷で詩人としての職を得た。しかし1790年にヨーゼフ2世が死ぬと、宮廷の中で不興を買い、1791年にウィーンを去らなければならなくなる。人気を失ったダ・ポンテは、1792年から1805年までロンドンで過ごしたのちアメリカに渡り、ニューヨークに落ち着く。そしてコロンビア大学の最初のイタリア文学教授に就任し、イタリア語およびイタリア文学の教育に献身した。彼の名を不朽にしたのは、モーツァルトのために執筆した『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コジ・ファン・トゥッテ』だが、かれのように波乱に満ちた人生を送った人物にして初めて生み出せた作品といえるだろう。
(モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」)
(モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」)
(モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」)
(マックス・スレーフォークト「剣を携えたドン・ファン」ベルリン 旧国立美術館)
(ロレンツォ・ダ・ポンテ)
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