「ウィーン」11 モーツァルト③『フィガロの結婚』

 モーツァルトは、コンスタンツェとの結婚を考え始めた1781年(25歳)初夏のころから、『フィガロの結婚』が上演される1786年(30歳)の春まで、人気ピアニスト兼流行作曲家として、ウィーンで音楽家人生最高の数年間を送っている。『フィガロの結婚』の初演は、1786年5月1日、ブルク劇場でモーツァルトの指揮によって行われた。仮に器楽作品や宗教音楽が一曲も書かれなかったとしても、この作品の作者というだけでモーツァルトの名は音楽史に革命児として刻まれただろう、と言われる。この作品からオペラの近代が始まった、とも言われる。なぜか?

 『フィガロの結婚』は、オペラ・ブッファ(喜劇)と呼ばれる分野の作品。オペラはもともと貴族階級の娯楽と社交、それに消閑(退屈しのぎ)を目的として発達してきた舞台芸術。そして、主催者である貴族の権力誇示が上演目的であったから、題材も筋書きも皇帝賛美、ハッピー・エンドにパターン化されている。さらに歌手の妙技披露に都合がよいように単純なシナリオが好まれた。音楽はひたすら背景にまわる。オペラ・ブッファは、このように王や貴族を題材にしたオペラ・セリアの幕間に、時間つぶしを目的に演じられるようになった小喜劇が原型。モーツァルトとダ・ポンテは、そんな幕間の小喜劇のスタイルを借りて、本格的なオペラを創造してしまったのだ。このときからオペラは、「体制芸術」という衣を脱ぎ捨てることになる。舞台上でも革命的な変化が生まれた。出演者のアンサンブルが始まったのだ。従来は一人ずつステージに登場し、交代でアリアを独白のごとく歌うとされてきた舞台上に、二重唱、三重唱、四重唱といった、声の室内楽シーンが誕生した。しかも極めて新鮮だったのは、メランコリーとウィット、叛逆精神や情熱など、陰影豊かな心の動きを映し出す多彩なメロディー。三時間余りの間、極上の音楽の連続によって心ゆくまで音楽劇の楽しさを満喫させてくれるこのオペラは、まさに完璧な傑作という形容がふさわしい。

 では、ブルク劇場での初演の反応はどうだったか?確かに大成功で、多くのアリアがアンコールされ、拍手が鳴りやまなかったため、上演時間が倍近くにもなったという。年内に9回の再演も記録された。しかし同じダ・ポンテが組んだ人気作曲家、マルティン・イ・ソレルの『珍事』が舞台にかけられるや、民心はたちまちモーツァルトを離れる。貴族の横暴を打破しようとする平民の心意気に満ちた内容が貴族の不快感を生んだようだ。この頃から、ウィーンの貴族たちはモーツァルトという音楽家に背を向け始める。

 しかし、プラハは違った。この年の12月に上演されると、爆発的な人気を博した。

「ここでは、みんなが《フィガロ》のことばかり話している。《フィガロ》以外はどんなメロディーも演奏されず、歌われず、口笛迄《フィガロ》だけ。とにかく《フィガロ》以外のオペラはありえず、開けても暮れても《フィガロ》だ。ほんとうに、名誉なことだ」(1787年1月15日 在ウィーンの友人ゴットフリート・フォン・ジャカン宛)

 1カ月足らずのプラハ滞在中、モーツァルトは『フィガロ』の上演に立ち会ったり、自ら指揮をするなど、当地の聴衆から熱狂的に迎えられた。劇場で催された演奏会では、新作の『交響曲第38番ニ長調』(通称『プラハ』)が演奏される。一階の平土間から「《フィガロ》から何か弾いてくれ!」と声がかかると、モーツァルトは頷いてピアノに戻り、有名なアリア〈もう飛べないぞ、恋の蝶々〉をテーマに、12曲の変奏曲を即興演奏。満場は鳴りやまぬ拍手と歓呼の声に沸き返った。この演奏会で、モーツァルトは1000フローリン(約700万円)の収入を手にしたと言われる。拍手と、名声と、金銭と、欲しいものすべてを手中にしたこの夜は、モーツァルトにとって、生涯最も輝かしい夜となった。幸せを満喫しながら彼は呟く。

      「わがプラハの人々、ぼくの音楽を理解してくれるお客様!」

 ハプスブルクの帝都ウィーンとは大きく異なるプラハ市民の熱狂。それはプラハの人々のモーツァルトびいきや音楽好きというだけでは説明できない。才知溢れる従僕の活躍によって貴族を痛烈に風刺嘲笑する『フィガロの結婚』の反体制の精神が、ハプスブルク帝国の支配にあえぐプラハの人々の郷土愛と出会ったのだろう。

( モーツァルトとコンスタンツェ)

(映画「プラハのモーツァルト」)

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