「ウィーン」10 モーツァルト②

 ウィーンで多忙な毎日を過ごすモーツァルトのもとに、待望のオペラの仕事が舞い込む。ドイツ語の台本による歌芝居(ジングシュピール)『後宮からの誘拐』。「オペラはイタリア語」という世間常識に挑戦したかった、皇帝ヨーゼフ2世の注文になる作品である。真偽のほどは怪しいが、シンプルに書かれたサリエリなどの作品に馴染んでいた皇帝が、陰影に富んだ管弦技法や転調技術を駆使したモーツァルトの音楽に戸惑いを覚え、皇帝ヨーゼフ2世が、リハーサルをしているモーツァルトに対して「この曲はちょっと音数が多すぎないか」と指摘したのに対して、モーツァルトが「皇帝、ちょうど必要なだけの音符があるのです」と答えたというエピソード(映画『アマデウス』にも登場)は有名である。劇の内容は、トルコの後宮に囚われの身になっている恋人(偶然にも、モーツァルトの結婚直前の恋人と同じコンスタンツェという名前)を救出するというもの。モーツァルトは登場人物たちの個性や心の動きを、周到な作曲法によって鮮やかに描き出す。

「しかし、激情は、それがどんなに激しいものであっても、嫌悪感を与える程にまで表現されてはなりません。そして音楽は、もっとも恐ろしい場面でも、決して耳ざわりなものであってはならず、やはり聴く者を楽しませるもの、つまり常に音楽であり続けなくてはなりません。」(1781年9月26日父レオポルト宛手紙)

 1782年7月16日、ブルク劇場での初演は大成功だった。再演が繰り返され、皇帝や大家グルックからも称賛される。翌月コンスタンツェと結婚し翌年6月には長男ライムントが誕生。翌月、ウィーンで独立して以来気まずくなってしまった父や姉との関係を修復しようとコンスタンツェを連れて帰郷するが、以前のような親密さが戻ることはなかったようだ。それでも1785年2月、父レオポルトは息子の招きに応じてウィーンにやってきた。モーツァルトとしては、ウィーンでの自分の充実した活躍ぶりを是非父に見てもらいたかったのだろう。レオポルトは、モーツァルトの姉ナンネル宛の手紙でその時の感想をこう記している。

「こちらに到着した晩、私たちはあの子の予約演奏会の初日を聴きに行ったが、そこには身分の高い人々がたくさん集まっていた。・・・演奏会はくらべようもない素晴らしさで、オーケストラも見事だった。・・・ハイドン氏は私にこう言われた。『私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたの御子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識をだれよりも豊富にお持ちです』・・・」

 2カ月余りのウィーン滞在の後、レオポルトは満足してザルツブルクに帰って行った。これが親子の最後の別れとなる。1785年から翌年の春にかけていよいよモーツァルトは新作オペラ『フィガロの結婚』の作曲に取り組む。台本は腕利きの台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテ。2年前にパリで初演されたボーマルシェの原作を取り上げようと言い出したのは、モーツァルト。これは大胆な提案だった。才知溢れる使用人フィガロの活躍によって貴族(アルマヴィーヴァ伯爵)が笑いものにされるこの痛烈な風刺喜劇は、内容に「公共の秩序を乱すおそれある部分有り」という理由で、フランス国内では上演禁止になっていた。ただそういっても、別に革命思想をむき出しにあおったものではない。アルマヴィーヴァ伯爵が、使用人フィガロの婚約者スザンナに横恋慕したあげく、「使用人の花嫁は、まずご主人様と初夜を共にする」という、旧態依然たる「初夜権」を行使せんとして失敗し、皆の笑いものになるという筋書きであったに過ぎない。しかし、ウィーンのケルントナートア劇場で上演されるはずだったのを、皇帝は土壇場になって上演禁止にした。モーツァルトは皇帝の同意を得るために、ありとあらゆる論法を駆使して皇帝の説得にあたったとダ・ポンテは回想録に記している。もちろんダ・ポンテも内容を換骨奪胎。貴族を笑い飛ばした政治的風刺劇を、人間の愛と欲望のドラマへと代えた。すぐれた現代喜劇の台本を得て、今やオペラ作曲家としてのモーツァルトの卓越した才能が見事に開花する。

 (クローチェ「家族の肖像」1781年 )

(ボーマルシェ)

(ロレンツォ・ダ・ポンテ)

(『フィガロの結婚』)

(『フィガロの結婚』)

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