「ウィーン」9 モーツァルト①

 モーツァルトが帝都ウィーンに定住するようになったのは1781年春、25歳の時。

「親愛なるパパ・・・誓って申し上げますが、ここは素晴らしい場所です。僕の仕事にとって、世界で最良の場所です。」(1781年4月4日父レオポルト宛手紙)

 希望に満ち溢れたモーツァルトのウィーン生活が始まる。ウィーンでの11年間に、彼は13回引っ越しているが、最初の住まいはウェーバー家の下宿。ウェーバー家はかつてマンハイムに住んでおり、その頃モーツァルトは次女のアロイジアにすっかり心を奪われた。しかし、ウェーバー家では2年前にミュンヘンで主人がなくなり、アロイジアもその翌年に俳優ランゲと結婚。その後未亡人は三人の未婚の娘たちとウィーンに移り住み、下宿を経営していたのである。モーツァルトはここで暮らすうちに、アロイジアの妹で三女のコンスタンツェを愛するようになってゆく。

「ぼくの最愛のコンスタンツェは醜くはありませんが、美人とはとても言えません。彼女の美しいところは、その小さな黒い瞳とすらりとした身体つきです。機知はありませんが、健全な常識を持っていますから、妻として母としての務めは十分に果たすことができます。決して贅沢好きではありません。」(1781年12月15日父レオポルト宛手紙)

 そして1782年8月4日、聖シュテファン寺院で結婚式を挙げた。 「ぼくたち二人が結ばれた時、ぼくも妻も泣き出してしまいました。列席した人たちや司祭様も、みんな感動して泣きました。ぼくたちの感動を目の当たりにしたからです。」(1782年8月7日父レオポルト宛手紙)

 新婚生活の中でモーツァルトは、以前にもまして作曲と演奏活動に精を出し、ウィーンでの彼の評判は着実に上がっていった。当時ウィーンを統治していたのは皇帝ヨーゼフ2世。彼が贅沢を嫌ったため、当時の宮廷は社交界の中心という役割を失っていた。しかし、ウィーンに居を構える20人の侯爵と70人の伯爵は、相変わらず華やかなイベントを重視しており、今や彼らのサロンが社交界の中心であり、新たな学術文化・芸術のセンターになっていた。モーツァルトはこの社交界で新たな人気者となり、数々のコンサートや「音楽アカデミー」を開催、ますます多くの音楽愛好家が、モーツァルトの熱烈なファンとなった。1783年3月23日にブルク劇場で開かれたヨーゼフ2世臨席の音楽会は、オール・モーツァルト・プログラムの大演奏会 だった。

「劇場はもうこれ以上人が入らないくらい一杯でした。しかも桟敷席という桟敷席も満員でした。その上一番うれしかったのは皇帝陛下もご出席くださったことです。それにこの御方はどんなにご満足であったことでしょうか。またどんなに高らかに拍手喝采をしてくださったことでしょうか。」(1789年3月29日父レオポルト宛手紙)

 このコンサートの主役は、モーツァルト自身がソリストとして活躍するピアノ協奏曲であり、ピアノ独奏用変奏曲であり、ピアノの即興演奏だった。しかしウィーンのモーツァルトは、ただたんにピアニストとして、ピアノ曲を中心にして活躍した存在ではなかった。あるいはただたんにコンサートで名人芸を披露し、あるいは自作を紹介するにとどまるものではなかった。彼は、ウィーンで定住する以前にオペラ作家としての修業を十二分に積んでいた。ウィーンはアルプス以北で、イタリア語オペラが盛んに上演された都市だった。しかも、1770年代の終り頃、ドイツの地に興ったドイツ語オペラの運動がもっとも意識的に推し進められた場所でもあった。それは皇帝ヨーゼフ2世の重要な文化政策でもあったからである。いよいよ、ウィーンにおいてモーツァルトはオペラ作家としてデビューする日を迎える。

 (「グラーベン 1782年」)

(「シュテファン寺院」銅版画 カール・シュッツ 1792)

(ヨーゼフ・ランゲ「モーツァルト 1783年」)

(「アロイージア・ウェーバー」)

(ヨーゼフ・ランゲ「コンスタンツェ・モーツァルト」ハンタリアン・アート・ギャラリー グラスゴー)

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