「ウィーン」8 ヨーゼフ2世の「寛容令」

 1740年10月20日、神聖ローマ皇帝カール6世が死去した。マリア・テレジアのオーストリア・ハプスブルク家継承に際して、プロイセンのフリードリヒ2世は、シュレージエン地方の一部に対する領有権の承認を求め、同年12月出兵、全シュレージエンを占領、オーストリア継承戦争の口火を切った。オーストリア継承戦争が終わっても、プロイセンが奪ったシュレージエンは、ついにハプスブルク家には戻らなかった(1748年「アーヘンの和」)。マリア・テレジアはこのことを片時も忘れなかった。フリードリヒ2世を「シュレージエン泥棒」と呼んで憎悪し、いかにすればあの商工業の発達した領地を取り戻せるかと、日夜その方策を探った。たどり着いた結論は、プロイセンに対抗できる強力な軍隊の養成、そのための国家財政の再建、そのための中央集権制度の確立。そのためにはローマ教会とも対決。マリア・テレジア自身はきわめて敬虔なカトリック信者だったが、オーストリアの近代化のためにずば抜けて多くの所領を有し、しかも治外法権、無税の教会関連施設にもメスを入れた。修道院の新設を禁止し、巡礼や儀式の回数を制限し、教会の所領にも課税した。 マリア・テレジアの長男ヨーゼフ二世が最も力を入れた改革は教会政策だった。啓蒙専制君主ヨーゼフは、教会は国家に奉仕すべきものとして、理性の名による宗派への介入を試みた。その第一歩が1781年10月13日、の「宗教寛容令」。それまで弾圧や追放の対象とされてきたプロテスタントに活動の自由を許したのだ。その一方で、同年11月29日の勅令で、その領土内における修道院の廃止を命じた。これによってオーストリア領およびハンガリー領域で廃止された修道院の数は700以上を数え、全修道院の三分の一に及んだ。廃止された修道院の財産は国の宗教財団に集められ、新たな教会や教育施設の建設などに使われた。こうした修道院の廃止や宗派の自由化は、カトリック教会には大きな痛手であり、当時の教皇ピウス6世は危機感を覚え、1782年に枢機卿たちの反対を押し切って、ヨーゼフ2世に会いにやってきたほどだった。

 宗教寛容令はユダヤ教にも拡大され、1782年1月2日には「ユダヤの寛容に関する布令」が出された。ユダヤ人も大学への入学が許可され、ユダヤの印の着用も廃止された。また、商業の他にマニュファクチュアの経営や農業を営むことも許された。しかし、しかし礼拝は個人宅で行われ、ユダヤ人のゲマインデ(共同体組織)の結成が許されるのは、1848年になってからのことである。  ヨーゼフの宗教寛容令の狙いはどこにあったのか?それは、これによって教会をローマ教皇から分離させ、カトリックの保護者としての皇帝ではなく、すべての国民の皇帝であるという、主権国家の形態を造り出すこと。この寛容令。プロテスタントの小貴族、農民には歓迎されたが、カトリック聖職者と大貴族は強く反発。しかし、プロテスタントの商工業者やユダヤ人の商人、企業家の活動が保証されたので、商工業の発展は大きな流れとなった。強い反発は残ったが、ヨーゼフ2世の次の皇帝となったレオポルト2世も啓蒙専制君主としての意志を継承していたので、この寛容令だけは撤回しなかった。

 啓蒙専制君主の代表と目されたヨーゼフ2世は、宗教寛容令以外にも、文字通り国民の蒙を啓(ひら)き国民を幸福にするために、矢継ぎ早に革新的な政策を実施した。母マリア・テレジアが時期尚早として踏みきらなかったことでも、躊躇なくやってのけた。農奴制御廃止、拷問の廃止、イエズス会の解散、ウィーンのプラ―タ―やアウガルテンのような、宮廷専用だった公園あるいは遊興施設の民衆への解放。こうした鉄砲玉のように間髪おかずにくりだされる革新的政策は、いずれも現実より以前にまず理念があり、それに従って立案されるために現実離れした空中楼閣だったり、あるいは緻密な思考を欠いた拙策だったりした。そのため、たちまち各方面から苦情が殺到し、怨嗟の声が高くなったので、ヨーゼフはわが非を認めて撤回する羽目に陥ることがしばしばだった。ある意味で、明治日本の急進的な欧化政策と相通じるところがあった。ヨーゼフは決して凡庸な君主ではなかったが、母マリア・テレジアのように人心の機微に通じていなかったし、現実を見定め、可能なことと不可能なことを区別する能力に欠けていた。理想主義だけでは現実は変えられない。ユリウス・カエサルのように冷徹なリアリストでなければならない。 

(自ら農耕に従事するヨーゼフ2世。「人民皇帝」と呼ばれたヨーゼフ2世は、農民から大きな人気を獲得した。)

(ヨーゼフ2世と会うピウス6世)

(マルティン・ファン・マイテンス「マリア・テレジア」ウィーン美術アカデミー)

(ゲオルグ・デッカー「ヨーゼフ2世」アルベルティーナ)

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