「ウィーン」6 三十年戦争、ペスト、第二次ウィーン包囲
最後にして最大の宗教戦争といえば「三十年戦争」(1618年~48年)。最初の局面ではまだ宗教的対立による戦争という傾向が強かったが,外国勢力が介入してからは,政治的利害のほうが優越し,最終的にはオーストリア,スペインの両ハプスブルク家とフランスのブルボン家(カトリックの国であるにもかかわらずプロテスタント側についた)の対抗関係を主軸として戦われた。この戦争はドイツ語圏の各地を荒廃させ、その全人口は三分の一に減ったとも言われる(ただし近年の研究では、人口そのものが減少したのではなく、城壁で守られた安全な都市へ移ったとも主張されている)。しかし、ウィーン自体はその主戦場となることはなく、敵軍に迫られたのは初期と終盤の二回だけで、それほど大きな影響を受けることはなかった。もちろん、ウィーンの後背地は荒れ果て、多くの農民が殺されたので、ウィーンへの食糧供給は滞り、ドナウの交易は機能停止に陥ってしまったが。
このように三十年戦争の惨禍こそまぬがれたウィーンも、ペストから逃れることはできなかった。対抗宗教改革や三十年戦争後の混乱した都市ウィーンの衛生状況は悲惨な状況にあり、いつでも伝染病が蔓延する危険にさらされていた。そして1679年9月のペストのウィーン襲撃。10万人とも言われる死者。反宗教改革後のウィーンでは、聖職者はペストを「神の罰」と見なし説教を行った。南西ドイツ生まれで、18歳でウィーンへやってきたアブラハム・ア・サンクタ・クララは燃えるような激しい説教によってウィーンで名をなしたが、著書『肝に銘ぜよ、ウィーン』の中でウィーンの悲惨な状況を述べ、時代の悪臭と軽薄さに警告を発した。
「ウィーン全体でまだたった一つの野戦病院しかなかった。墓地はつくられてもすぐに一杯になった。死は通りや広場、家々で猛威を振るい、人々はこのひと月ウィーンの街やその周りで、死者以外のものを運ぶのを見たことがない。死者を持ち込み投げ込み埋葬するだけであった」
「この災害は神の罰である。異端や肉欲を含む犯されたあらゆる罪に対する罰であり、それはカトリック教会のみが許しうるものである」
11月に寒波が到来し、ようやく最悪の災害は収束するが、それに続く2年間にもペストは発生。皇帝レオポルト1世はそれまで木製だったペスト記念碑を石造に建て替えることを約束し、ようやく「天罰」は終焉を迎えたとされる。これがグラーベン通りにある有名なペスト記念碑である。
ペストの恐怖の余韻が残る中、ウィーン市民はさらなる恐怖を体験することになる。1683年7月、大宰相カラ・ムスタファ率いる20万のトルコ軍が再度(第一次ウィーン包囲は1529年)ウィーンに迫って来たのだ。ウィーンでは籠城戦への備えも十分でなく、人々はパニックに襲われた。皇帝家族や大部分の貴族たちは包囲される以前にドナウ対岸やリンツなどの西方の安全な地域に避難し、3~6万の市民たちもウィーンを離れた。ウィーンにはシュタルヘンベルク指揮下に1万人余りの兵が残され、市長の指導下に5000人の市民兵も組織された。皇帝もウィーンの外にあって、精力的に救援軍の組織に動いていたが、三十年戦争のしこりがあってカトリック・プロテスタントの対立もあり軍勢を整えるのは容易ではなかった。8月中頃には籠城戦は危機的状況に陥る。食糧は不足し、弾薬は底をつき、その上赤痢が蔓延し、市長のリーベンベルクも罹患し死亡。強力な武装騎兵隊のポーランド軍が到着するのは8月31日。皇帝はポーランド王ソビエスキに軍の指揮権を委ねた。9月12日、ウィーンの森のカーレンベルクに救援軍が勢揃いし、司教のミサを受けて、ウィーンの森を駆け下りる。ポーランド奇兵隊は宰相の親衛隊イェニチェリ軍を蹴散らし、オスマン軍は総崩れで撤退した。戦闘のあとに残された膨大な戦利品が、この第二次ウィーン包囲の凄まじさを物語っている。
大砲 370門 テント 1万5千張 牛 1万頭 駱駝 5千頭 羊 1万頭 大量の穀物
(フラン・ゲッフェルス「第二次ウィーン包囲」ウィーン・ミュージアム)
(「ペスト記念碑」ウィーン グラーベン)
(アブラハム・ア・サンクタ・クララ)
(ベンジャミン・フォン・ブロック「皇帝レオポルト1世」ウィーン美術史美術館)
(「カラ・ムスタファ」ウィーン・ミュージアム)
(イェジー・シェミギノフスキ=エレウテル「ウィーンの戦いにおけるヤン3世ソビェスキ」ワルシャワ国立美術館)
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