「ウィーン」4 カール5世、第一次ウィーン包囲
神聖ローマ帝国に関連してマクシミリアン1世は大きな変革を行った。第一は、1512年に帝国の国号を「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と正式に改めたこと。言うまでもなく「帝国」とは諸民族を束ねる政治体である。ところがその「帝国」に、「ドイツ国民の」という修飾語を冠したのだ。つまりこれは「神聖ローマ帝国」は「帝国」でありながらその実効支配はドイツに限られ、「ドイツ王国」となんら変わりないということの自覚であったのである。第二はこの事と関わるが、マクシミリアン1世は、1508年、ローマ教皇の手による戴冠を受けずに皇帝を名乗っている。帝国がドイツの国民国家に近づいた以上、「ヨーロッパは一つ」という帝国理念のバックボーンであるローマ・カトリック教会の教皇の戴冠は必要なくなったのである。もちろん、このように神聖ローマ帝国が事実上ドイツ王国になったとは言え、皇帝位はいまだ眩く輝き、ヨーロッパの王侯の渇望の的ではあった。1519年の皇帝選挙でのスペイン王カルロス1世とフランス王フランソワ1世の激しい争いはそのことをよく示している。
この選挙に勝利して神聖ローマ皇帝となったカール5世は、帝国全体についてはカトリック擁護の立場をとったが、ウィーンを含むオーストリアに関しては弟のフェルディナントに任せた。1517年に北ドイツでマルティン・ルターが開始した宗教改革は、その後ヨーロッパ全域に広がり、ハプスブルクのお膝元ウィーンも例外ではなく、16世紀半ばにはウィーン市民の半分以上が新教徒(プロテスタント)になっていたと言われる。15世紀半ばよりハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を世襲するようになり、ウィーンはその中心都市となったが、ウィーン市民はハプスブルク家の歴代皇帝に対して必ずしも従順ではなかった。そして1522年には、オーストリアの貴族やウィーン市長などの新教徒が、王位継承の確定しない時期に領主権を弱体化しようと反乱を起こしたが、新領主フェルディナントによって鎮圧された。そして1527年、ウィーンに新都市規制を強要。その内容は、市長及び市参事会の選挙制を廃止して、領主による任命制に代えるもので、これによってウィーンは、独立性を意味する団体自治も、市民が自主的に運営する住民自治も廃止されてしまった。以後19世紀半ばまで、自治権を持つ真の意味の都市としての歴史をウィーンには見ることはできなくなった。
ところで、フェルディナントにとって当面の緊急課題は、宗教問題ではなく、迫り来るトルコの脅威であった。オスマン帝国は、1453年東ローマ帝国を滅ぼしたのち北上し、1526年「モハチの戦い」でハンガリーを破ったうえ、1529年9月には20万の大軍でウィーンを包囲した。フェルディナントは帝国諸侯に援助を求める。新教徒の領邦君主や帝国都市の市民らは、これを好機ととらえる。フェルディナント大公支援の見返りに信仰の自由を要求したのだ。フェルディナントも日に日に抵抗力を弱めていくウィーンを目の当たりにして、ある程度の譲歩はせざるを得ない。このウィーン包囲は、陥落寸前でスレイマン大帝が撤退を始めたため、奇跡的に危機を脱することができた。
しかし退却したと言っても、トルコに戻ったわけではない。ハンガリーやバルカン半島の大部分はいぜんとしてトルコの支配下にあり、トルコの危険が去ったわけではなかった。このような状況下にあっても、ヨーロッパキリスト教世界は、一枚岩となってイスラム勢力に立ち向かったわけではない。カール5世と対立していたフランス国王フランソワ1世など、ハプスブルクという「悪魔」を倒すためには、トルコという「サタン」と手を結ぶことも辞さぬ構えを見せていた。事実、1535年、スレイマン大帝とフランソワ1世はトルコとフランスが同盟を結ぶという内容のベオグラード条約を締結した。
ウィーンの街は、この包囲戦のあと城壁が強化された。中世の城壁では、トルコ軍の強力な火器に対抗しきれないことがわかり、3年かかってイタリアを手本にして城壁の強化工事が行われている。城壁のすぐ外側の家屋は一掃され、市側から敵を狙って射撃しやすいように、広い空き地「グラシ」がつくられた。平和時には市民が好んで出かけるピクニックの場だった。また城壁そのものの強化は、「バスタイ」と呼ばれる「堡塁」とそれらをつなぐ通路部分の建設に力点があった。これによって、ウィーンは広いテラスの様な建造物にとり巻かれるようになったのである。モーツアルトやベートーヴェンが過ごしたウィーンもこのような城塞都市だった。
(1683年 ウィーン鳥瞰図 )
ティツィアーノ「カール5世騎馬像」プラド美術館)
(ヤーコプ・ザイゼネッガー「カール5世」ウィーン美術史美術館)
(「フェルディナント1世」ウィーン美術史美術館)
(1522年 ウィーンの反乱失敗と処刑)
(「スレイマン大帝」ウィーン美術史美術館)
(ジャン・クルーエ「フランソワ1世」ルーヴル美術館)
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