「ウィーン」3 ルドルフ1世~マクシミリアン1世
神聖ローマ帝国皇帝はどのようにして選ばれるのか?ローマ教皇から帝冠を授与されてはじめて皇帝と呼ばれるが、皇帝を選ぶのは教皇ではない。7人の選帝侯だ。7人のうち3人が聖職者(マインツ、ケルン、トリーアの大司教)で、4人が世俗の君主(ボヘミア王、ブランデンブルク公、ザクセン公、プァルツ宮中伯)。これは世襲職で1806年の帝国解体まで、原則として不変だった。ただし、選挙だからといって立候補した者の中から誰かが選ばれるわけではなく、選挙の結果はすべて選帝侯の意向にかかっていた。1273年の皇帝選挙の結果がハプスブルク家の惣領ルドルフに知らされた時、彼は使者にこう言ったとされる。
「ひとを馬鹿にするにもほどがある。そのような戯れ言をおっしゃるものではない」
何しろ当時のルドルフは、所領と言えばライン川上流(スイス)のわずかな地域だけの貧乏貴族だった。その時の皇帝選挙の絶対の本命と目されていたのはボヘミア王オットカ―ル。しかし彼は、北はバルト海から南はアドリア海に及ぶ一大国家を築こうと、虎視眈々とその機をうかがう野心家。そのため、選帝侯たちは、この男ならまず毒にも害にもならないだろうという理由でハプスブルク家のルドルフを選んだのだ。しかし、それがとんでもない見込み違いだったことがやがて判明する。1278年の「マルヒフェルトの戦い」でオットカールに勝利し、東方からの脅威を一掃したのみならず、ハプスブルク家はウィーンを中心とするオーストリアを手中に収め、一挙に他のドイツ諸侯をしのぐ文字通りの盟主の地位に駆け上がったのである。しかしこのような成り上がりめいた成功はすぐにしっぺ返しを食う。ルドルフ1世のあとを受けた息子アルブレヒト1世は、あまりにも強引な領地拡大の挙句、在位10年にして暗殺されてしまう。以後、ハプスブルク家は130年間にわたって、神聖ローマ皇帝の位から遠ざかることを余儀なくされたのである。
しかしその一方で、1365年にはルドルフ4世(後世「建設公」と呼ばれる)の手でウィーン大学(正式名 ルドルフ大学。プラハのカレル大学に次いで中欧で二番目に古い)が創建され、聖シュテファン大聖堂もホール内陣が1303年から40年にかけて、シンボルとも言うべき南塔が1359年から1433年にかけてつくられるなど、ウィーンの都市機能は次第に整備されていった。 ハプスブルク家にとって中興の祖といわれるのは、デューラーが肖像画を描いたマクシミリアン1世である。彼は巧みにヨーロッパの他の王家と婚姻関係を結ぶ(当時の有名なラテン語詩「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ。—―マルス(軍神)が他のものに与えし国は、ヴィーナス(愛の女神)によりて授けられん」)ことによって、飛躍的に勢力を拡大。父親フリードリヒ3世とマクシミリアン1世の二代にわたる結婚政策を通じて、5組の王家間結婚を成立させ、ブルゴーニュ、スペイン、ボヘミア、ハンガリーを獲得した。当時スペインは、大西洋のかなたの新大陸から、極東のフィリピンまで支配する植民帝国として躍進中であったから、この結婚政策の結果、ハプスブルク家は文字通り「日没することなき世界帝国」の支配者となったのである。
では、マクシミリアンはウィーンとどう関わったか?彼は、ブルゴーニュ公国(ブリュッセルを都とし、今日のフランスのブルゴーニュから、ベルギー、ルクセンブルク、オランダにまで広がっていた国で、当時ヨーロッパで最大の富を集め、もっとも豊かな文化を誇っていた。その富の源泉は毛織物産業。イギリスから安い値で羊毛を輸入し、これを原料として高級衣料や壁掛けや絨毯などを完成し、製品を遠くハンザ都市やアフリカ、オリエントにまでも輸出した)の公女マリアとの結婚によってブルゴーニュを手に入れたものの、同じくこの地に野心を持つフランスと敵対関係に立つことになった。このフランスに備えるためマクシミリアンは宮廷をチロルのインスブルックに移した。そしてブルゴーニュの宮廷文化を持ち込み、インスブルックは栄えた。他方ウィーンは、父とともに王宮でウィーン市民に包囲された幼少の記憶のためか、特に優遇することもなかった。ウィーンの積み下ろし特権を廃止し、ドナウ川下流の地域との交易を広くウィーン以外の商人に開放し、ウィーンの経済に打撃を与えた。マクシミリアンの関心は、東方のウィーンではなく、つねに西方にあったのである。それでもブルゴーニュの先進文化はウィーンにも入って行った。
(ハプスブルク家発祥の地)
(13世紀半ば ハプスブルクとボヘミア)
(ヨーゼフ・フューリッヒ「ルドルフと僧」オーストリア絵画館)
ルドルフがハプスブルク躍進の基礎を固めるに至ったのは、彼が信仰心があつく、キリスト教に深く帰依していたことが預かっていた。この絵は、若い伴を連れた僧が瀕死の者に聖体を運んでいるところに、狩りの途中のルドルフが偶然通りかかった場面。彼は聖体に対し畏敬の念を抱き、僧が足をぬらさずに川を渡れるように自分の馬を勧める。
(1519アルブレヒト・デューラー 「マクシミリアン1世」ウィーン美術史美術館)
(15世紀のブルゴーニュ公国領)
(インスブルックの「黄金の小屋根」)
インスブルック市内で最も著名なシンボル。神聖ローマ皇帝 マクシミリアン1世とビアンカ・マリア・スフォルツァとの結婚(二度目の結婚)を記念して造られ1500年に完成。2,657枚の金箔を貼った銅製のタイルでできている。
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