「ウィーン」2 バーベンベルク家からハプスブルク家へ

 世界遺産「ヴァッハウ渓谷の文化的景観」のひとつでもあり、映画『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコによる同名小説の映画化作品)の舞台としても人気なのが「メルク修道院」。ドナウ川を見下ろす高台に立ち、東西320mの巨大な修道院が65mの尖塔をもつ教会を取り囲んでいる。この修道院を白と黄が色鮮やかなオーストリア、いやヨーロッパ屈指のバロック建築にしたのはハプスブルク家。ウィーン北方のクロースターノイブルク修道院とならび皇室祭祀の霊場として巨財を投じてこしらえあげた。しかしこの修道院を設立したのは、ハプスブルク家ではない。バーベンベルク家のオーストリア辺境伯レオポルト2世。彼が1089年、城の1つをベネディクト派(カトリックの修道会)に寄進することで創設されたのだ。このバーベンベルク家、976年から1248年の270年間オーストリアを支配したが、ウィーンに宮廷が置かれるようになった(首都となった)のはハインリヒ2世(在位1141~77)時代からである。以後、ウィーンは商業によって栄える。ウィーンは東西のドナウ川航行と、南北の「琥珀の道」(琥珀はポーランドの北岸とバルト三国の西岸地方、とくにポーランドのプロイセン地方およびポメラニア地方でもっとも多く採掘された。現在でも世界の琥珀の約90%はポーランドのバルト海沿岸で産出される。琥珀の産地であるプロイセンのザムラントから船でワイクセル河口に運ばれた琥珀を南のブレスラウを経て,メーレンを通り,ドナウ川を下ってウィーンの近くまで運び,そこからさらに北イタリアに運んだ)すなわちヴェネツィアへの通路という二つの通商路の交差点にあったから、早くから商人に重視されていた。

 しかし1246年、バーベンベルク家の当主フリードリッヒ(「公戦公」)が、ハンガリーとの戦闘で倒れ、その血統が途絶える。その結果、数十年にわたりオーストリア継承をめぐる争いが生じる。この争いを制したのが、ボヘミア王オットカール。オットカールは、当時の中部ヨーロッパでもっとも豊かなボヘミア王であり、この経済力を背景にウィーン建設を進め、ウィーンの街並みは木造から急速に石造りへと移行する。  オットカールがウィーンの発展に力を注いでいるころ、神聖ローマ帝国全体のレベルでは大きな変動が起きつつあった。シュタウフェン家の血統がとだえ、正当な皇帝不在の「大空位時代」がはじまっていた。それは1254年から続いていたが、時を同じくして起きた急速なオットカールの勢力伸張に、法王もドイツ諸侯も警戒の念を強めるに至った。その結果、1273年にドイツ王に選ばれたのが、ハプスブルク家のルドルフであった(ドイツ王と神聖ローマ帝国皇帝とは、同じではない。ドイツ王がイタリア王を兼ね、ローマ法王から聖油をうけると神聖ローマ帝国の皇帝となる)。

 ルドルフ1世は、オットカールにオーストリアの返還を迫るが、オットカールはこれを拒否。そこでルドルフは兵を率いてオーストリアに向かう。1278年8月26日、両勢力はウィーン北東のマルヒフェルトで激突。ルドルフにはどう見ても勝ち目はなかった。経済力では圧倒的にオットカールが勝っていたが、ルドルフは偉大なリアリスト、現実を直視しながら前例に縛られない。騎士の一騎打ちの勝敗の足し算で戦いの帰趨が決まるという時代に、伏兵を置く奇襲作戦に出た。こうしてルドルフは戦いに勝利し、ウィーン奪回に成功した。このマルヒフェルト決戦の日こそ、1918年まで640年つづくハプスブルク帝国の始まりであった。そして、この時を持ってハプスブルク家によるウィーン支配という、新しい歴史がその幕を切って落とすと同時に、神聖ローマ帝国を代表する都市であることを宿命づけられ、中欧から東欧諸国にかけて、すなわちドイツからハンガリー、チェコに至る広い地域を支配する帝都として、数々の歴史の舞台となるのである。

 (メルク修道院)

(クロースターノイブルク修道院)

(オットカール)

(ルドルフ1世)

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