「ウィーン」1 都市ウィーンの誕生
もっとも古い人間像の一つとして、考古学上、美術史上特に有名な「ヴィレンドルフのヴィーナス」(高さ11.1㎝ 紀元前2万2千年~紀元前2万年 ウィーン自然史博物館所蔵)が出土したのは、ウィーンを囲む下オーストリア(ニーダーエーステライヒ)州の、ドナウ河畔の町ヴィレンドルフであった。このように2万年以上前から人類はドナウ川岸辺に住んでいたが、最初にウィーンに関する記録を残したのはローマ人。1世紀初頭のローマ帝国の新方針でライン・ドナウ国境化が打ち出され、ドナウ川沿いに長城を造り、途中にいくつかの軍事拠点が設けられた際ノリクム(後のパンノニア)の中心としてカルヌントゥムという町が築かれた。その側面保護のため、トラヤヌス帝(在位:98年 - 117年 初の属州出身の皇帝 ローマ帝国史上最大の版図を実現)の時代にドナウ川とウィーン川の交わるところに軍営ヴィンドボーナを建設し、6000人の兵士を駐屯させたのがウィーンの始まりとされる。170年、五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝は、ヴィンドボーナをドナウの守りの中心とし、第十軍団を駐屯させた。彼は「哲人皇帝」と呼ばれ、『自省録』を著わしたが、そのうちの3巻から12巻は死の直前にウィーンで書いたものと推定されている。そして東方の蛮族との対決のさなかの180年3月17日、このヴィンドボーナで没した。
ウィーンはこうして都市の整備に優れた能力を発揮したローマ人の支配下で本格的スタートをきったが、やがてローマの支配は乱れ、ゲルマン民族が勢力を盛り返す。そして4世紀末、ゲルマン民族の侵入によってカルヌントゥムは破壊。こうして、自然の地形と強固な城壁に守られたウィーンが、この地唯一の中心となる。この時代の遺跡は、1970年代からの地下鉄工事で次々に発見されている。軍事基地の南東に背負う工業地区が作られ、多い時には2万人が居住していた様子である。この時代のローマの貨幣も多量に発見され、この頃のウィーンの繁栄が裏付けられる。
しかし、それも、長くは続かない。周辺の諸民族の圧力が高まる一方、持ちこたえられなくなった西ローマ帝国は、427年ウィーンを含むパンノニア全体から撤退する。やがてフン族の王アッティラがこの地の支配者となり、その突然の死のあと東ゴート族が支配する。さしあたりウィーンの名が最後に記録されるのは、東ゴート支配下の550年のことだ。ウィーンの名は、こののち500年近くも歴史から姿を消す。次の記録は11世紀の始めを待たねばならない。ウィーンという名称自体は、1030年になって記録に出てくる。
もちろん、記録に残されていなくとも、発掘などの結果から、この〉記録上の「暗黒時代」のウィーンも、諸民族の混在する都市として存続していたことが確かめられている。7世紀になるとバイエルン族が支配者となり、やがてキリスト教を受け入れて、このあたりはオストマルクと呼ばれるようになった。オーストリアの呼び名の起こりである。こうしてウィーンは、東欧のスラブ系の諸民族と、中欧のドイツ系のゲルマン民族との接点、あるいは境界として常にあり、その年としての性格を培っていった。
さて、中世になるとオストマルクは神聖ローマ帝国の支配下になり、バーベンベルク家が辺境伯として任じられていた。1156年、皇帝フリードリヒ1世バルバロッサは、バーベンベルク家のハインリッヒ2世にこの地を与え、独立したオーストリア公国として昇格させた。ウィーンが首都となったのは、この時からである。
(オーストリア周辺の地形図)
(「ヴィーレンドルフのヴィーナス」ウィーン自然史博物館)
(「トラヤヌス帝」ミュンヘン グリュプトテーク)
(神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ)
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