「カエサルとクレオパトラ」5 アレキサンドリア戦役

 カエサルとクレオパトラのいた王宮は、海と陸の両方から包囲された。カエサルは4カ月間守りに徹した戦いを強いられたが、それも要請していた援軍が到着したことで一変。エジプト軍は殲滅され、プトレマイオス13世はナイル川に身を投じて自害した。戦役後、勝利者カエサルはエジプトをどうしたか?ローマに併合しようとしたか?否。ただ戦役前にやろうとしたことをやっただけである。つまり、先王の遺言、すなわちクレオパトラと王子の共同統治の忠実な実施である。それがエジプトの民情にも合い、それゆえにローマにとっても適策であったから。こうしてクレオパトラと生き残ったプトレマイオス14世との共同統治が開始。と言ってもプトレマイオス14世はまだ少年。エジプトの王位は、実質的には、22歳のクレオパトラのものになった。

 では、カエサルはアレクサンドリアの市民たちにどのような処分を下したのか?彼らは、王家の内紛を利用して、ギリシア系で固めているエジプトからローマ勢力を追放しようとして、戦役ではカエサルに敵対して戦っていた。オリエントのしきたりでは、敗者の運命は死刑になるか奴隷として売られるかに決まっていた。しかしカエサルは、何の罰も与えなかった。クレオパトラの父プトレマイオス12世が遺言書の中で書いていたようにエジプトは「ローマ市民の友人であり同盟者」であり、そのような国としてエジプトに対応し、その臣下であるアレクサンドリア市民も扱った。彼らは、勝利者カエサルに対して、武装放棄はもちろん、自分たちの王になってほしいとまで言って、助命を嘆願していた。ローマに敵対しない、という条件が守られれば自分と戦った相手だろうと許したのは、ガリア戦役以来一貫したカエサルの寛容政策。もちろんそれが統治の安定に不可欠との判断からだが。だから、クレオパトラの妹で反乱の首謀者でもあったアルシノエに対してだけは厳しい措置が取られた。エジプトに置いておいては内紛の源になる危険があるため、ローマに護送された。

 このようにエジプトでやるべきことをすべてやり終えてカエサルはどうしたか?急ぎローマにもどって、内乱の勝利者として新国家秩序の建設に取り組んだと書きたいところだが、そうしなかった。なんと2カ月もエジプトにとどまり休暇を楽しんだ。ここがカエサルらしいところ。元老院主導体制から帝政に移行させる、という大きな目標を決して見失うことなく邁進する目的意識の強さを持ちつつも、けっして今を楽しむことを忘れないエピキュリアン(快楽主義者)。もちろん、それを可能にするのはカエサルから離れていても彼の支持を忠実に実行する有能な部下の存在。カエサルも、単純なヴァカンスだけのために2カ月を費やしたわけではない。部下の兵士たちに休息を与えるとともに、ルビコン川を渡ってからの戦いの日々を振り返り、総括し、新たな国家建設事業に想いをはせたことだろう。この休暇中に、『内乱記』全三巻を書き上げたことがそのことを示している。それでも、ポンペイウスの残党が、エジプトと陸続きの現チュニジアや現アルジェリアで、反カエサルの刃を磨いている中で、愛人クレオパトラと2カ月間のナイル周遊。カエサルがクレオパトラの魅力に溺れたため、と言われても仕方がない。しかし、どれほどタフなカエサルでも神ではない。ルビコン渡河とラビエヌスの裏切り、ポンペイウス軍の国外脱出の阻止の失敗(これによって戦線がイタリア半島を越えて大きく拡大)、ローマでの執政官就任、アドリア海の横断、ドゥラキウム攻防戦の敗北、ファルサルスの戦いの勝利、アレクサンドリア戦役。紀元前49年1月から紀元前47年3月までの2年間、カエサルは片時も緊張から解放されない、心身を酷使させられる日々を戦い抜いてきた。新たな段階の戦いに向かうにあたって、心身のリフレッシュは不可欠だっただろう。それもカエサルの優れた自己制御能力。 休暇を終えてアレクサンドリアに戻ってきたカエサルは、小アジアでの反乱勃発の急報を受けて直ちに出発。小アジアのほぼ半分を攻略したポントス王ファルナケスと黒海に近いゼラで対決。戦闘後、ローマの元老院への戦勝報告をカエサルは次の三語で始めた。 

                 「来た、見た、勝った」 

(映画「シーザーとクレオパトラ」主演ヴィヴィアン・リー)

(映画「シーザーとクレオパトラ」主演ヴィヴィアン・リー)

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