「カエサルとクレオパトラ」4 カエサルとの出会い

 紀元前51年に女王となって間もなく、クレオパトラと弟プトレマイオス13世の側近とのあいだに敵対関係が生じる。クレオパトラは王権の維持をローマの支持によってはかろうとする。しかしその頃、ローマもエジプトに劣らず分裂していた。カエサルとポンペイウスの争いである。クレオパトラがついたのはカエサル側ではない。先王とのつながりの深かったポンペイ側だ。紀元前49年、ルビコン川を渡ってローマへ想定外のスピードで進軍するカエサルに対して、ポンペイウスは首都ローマを放棄しアドリア海を渡る。そのポンペイウスにクレオパトラは食糧と兵士を送る。最終的に勝利を収めるのはポンペイウスと判断したからだ。しかしそのことがプトレマイオス13世の側近との対立を深める。紀元前48年、クレオパトラは首都アレクサンドリアを追われ、シリアとの国境近くに身を隠す。そしてそこでアラブ人を採用して軍隊を編成。それを知った国王の側近たちも、女王の帰国を妨げるため、女王との戦いに挑もうとする。両軍が衝突しそうになったとき、思いがけない情報が伝えられる。8月9日、「ファルサロスの戦い」でカエサルの軍勢がポンペイウスを打ち破り、敗北したポンペイウスがエジプトの庇護を求めてアレクサンドリアに向かっている、というのだ。ポンペイウス到来の知らせは、国王の側近たちを大混乱に陥れた。ポンペイウスの要求を入れれば、カエサルに攻撃の口実を与えることになる。さりとて、拒否すれば、ポンペイウスの復讐が恐ろしい。困ったあげく採用されたのは、ポンペイウスを迎え入れた上での殺害。そして9月28日、アレクサンドリアに到着したポンペイウスは船の上で殺害された。

 ポンペイウスを追ってカエサルがアレクサンドリアの港に上陸したのは10月4日。ポンペイウスが殺害された日から、6日目のことだった。カエサルは、エジプト国内の政情安定は、ローマの執政官である自分の任務と考えた。そこで上陸後直ちに、紛争の当事者である姉クレオパトラと弟プトレマイオスを、三日後の10月7日と決めて王宮に召集することにした。しかし、クレオパトラがカエサルの招集に応じるのは容易ではなかった。アレクサンドリアに向かう途中でいつ何時、弟一派によって暗殺されるかもしれなかったからだ。プルタルコスの語るところによると、そのときクレオパトラは一計を案じた。彼女は夜間小舟に乗り、忠実な家僕の一人アッポロドロスだけを連れて、アレクサンドリア入りするのに成功。しかしまだ問題が残っている。どうやって人に知られず王宮に入るかだ。 「人目を忍ぶ方法がなかったので、彼女は毛布のなかへ入って、身体を長く伸ばし、アッポロドロスがそれを革ひもで結び、王宮の門からカエサルのところへ運び入れた。」(プルタルコス)

 このクレオパトラの術策こそ、最初にカエサルの心をとらえた魅力であった、と言われている。 「(カエサルは)大胆な姿で現れたクレオパトラの奇計に驚嘆し、彼女の優雅さやその後の応接に魅了された」(プルタルコス)

 翌朝、カエサルはクレオパトラとプトレマイオス13世を呼び出す。そこでカエサルが下した裁定は、姉と弟の和解と共同統治の再開。このクレオパトラに有利な裁定は、古今東西数多の憶測を巻き起こしてきた。カエサルが下した裁定は、クレオパトラの魅力の虜になった結果だ、と。しかし、そうではなかったと思う。カエサルにとって最重要だったのは、エジプトが先王時代と同じように、ローマの同盟者であり続けること。先王は遺言状にこう記していた。

「1 年長の王女と王子が共同で統治すること

 2 エジプト王室は以後も、「ローマ市民の友人であり同盟者」でありつづけること 」

 カエサルが下した裁定は、先王の遺言を忠実に守ること、であったにすぎない。確かに内紛状態の軍事上の優位を考慮すれば、弟王に有利な裁定も考えられたが、同胞のローマ人ポンペイウスを殺した一派に与したのでは、本国のローマ人に悪影響を及ぼす。もちろんカエサルのこと、弟王や側近たちに不利な裁定が自らをどのような危険な状態に陥らせるかもわかっていた。だからこそ、アレクサンドリアへの上陸後最初にカエサルがしたのは、クレオパトラと弟王の招集と共に、小アジアへの援軍派遣の命令だった。実際、王の側近たちがカエサルに対して軍事行動を起こしたのは、裁定が下ったわずか1カ月後。こうして「アレクサンドリア戦役」が始まった。

 (ピエトロ・ダ・コルトーナ「クレオパトラを王座につけるカエサル」リヨン美術館)部分

(ジャン・レオン・ジェローム「クレオパトラとカエサル」)

カエサルの前に姿をあらわしたクレオパトラ

(「クレオパトラ像(レリーフ)」紀元前1世紀 ルーヴル美術館)

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