「カエサルとクレオパトラ」2 プトレマイオス王家の女王クレオパトラ

 クレオパトラの生まれたプトレマイオス王家は、古代エジプトから伝わる王朝ではなく、外来の王朝である。マケドニア(ギリシアの北方に栄えた王国)のアレクサンダー大王が紀元前332年にエジプトを征服し、彼の死後、マケドニアの武将だったプトレマイオスが、紀元前305年から王を称し、プトレマイオス1世となった。これ以後300年近くにわたって続いたのがプトレマイオス朝である。プトレマイオス王家は、その出自であるマケドニアの習慣を大切にし、ギリシア語を話し、ギリシア風の衣服を身にまとうなど、ギリシア式の生活様式を変えようとしなかった。しかし、統治にあたっては、エジプト伝来の神々の存在を認め、そのうえでギリシアの神々との融合を図った。プトレマイオス1世は、エジプトの神オシリス=アピスとギリシアの髪ゼウスの双方の性格を持つセラピス神を作り出し、国民の宗教的一体化に成功した。また、古代エジプトの例にならって近親婚が導入され、神の末裔である王家の兄弟姉妹が夫婦として国を統治する習慣を定着させた。そのため、王家に生まれた女たちは、兄弟である夫とともに政治に携わり、大きな力を振るった。しかし、その一方で、王位をめぐる家族間の争いが絶えなかった。それは、クレオパトラの兄弟姉妹も同様だった。

 紀元前51年、クレオパトラの父プトレマイオス12世がこの世を去る。彼は、遺言状の中で、残された4人の子どものうち年長のクレオパトラと弟のプトレマイオス13世が結婚し、共同してエジプトを治めるよう指定していた。このとき、クレオパトラ18歳、プトレマイオス13世10歳。当然国王としての権力は、クレオパトラ7世(彼女以前にクレオパトラの名を持つ王女は6人いたということ。「クレオパトラ」とはギリシア語で「父の栄誉」という意味)となった彼女に集中。こうしてクレオパトラは、、広大な国土と国民を支配下に置くことになった。18歳と年は若いが、決して飾り物の女王ではない。クレオパトラには、支配者になるだけの資質と、十分な教育があった。

 アレクサンダー大王の征服以降、エジプトに君臨したプトレマイオス朝の王たちは、学問の新興に力を注いだ。学科の内容は多岐にわたり、精神的にも肉体的にも優れたエリートを育てようとするギリシア式の教育が行われた。なかでも重視されたのは、文学、修辞学、天文学、数学である。文学の授業では、学校の生徒たちは、ギリシアの古典の中から注意深く選ばれたテキストを使って、豊かな文学知識を身につけた。クレオパトラも、ホメロスやヘシオドスの詩に親しみ、エウリピデスの悲劇やメナンドロスの喜劇で人間を理解し、ヘロドトスやトゥキュディデスの書物で歴史を学んだ。修辞学は、ギリシアの雄弁家デモステネスの演説集を使って勉強した。また、肉体的な鍛錬も怠らなかった。クレオパトラは、乗馬の名手だった(そう言えば、優れた女性君主だったエリザベス1世もマリア・テレジアも乗馬の名手だった)。

 環境に恵まれていただけでなく、クレオパトラには才能もあった。特に語学の才能は素晴らしく、複数の外国語を自由に操ることができた。ギリシアの歴史家プルタルコスはこう伝えている。

「クレオパトラの舌は、広い音域を使ってさまざまな音楽を奏でる楽器のようなものだった。彼女はどんな国の言葉でも思うままに話すことができた。そのため、エチオピア人、アラビア人、ヘブライ人、シリア人、メディア人、パルティア人など異国の人と話す時でも、通訳を使うことはほとんどなかった。」

 プトレマイオス王家の人々は、語学に興味を持たなかったようなのでクレオパトラは例外的だったのだろうが、その才能はやがて外国との交渉で大いに威力を発揮することになる。

(映画「シーザーとクレオパトラ」 1945年イギリス 主演:ヴィヴィアン・リー)

(映画「シーザーとクレオパトラ」 1945年イギリス 主演:ヴィヴィアン・リー)

(映画「ミッション クレオパトラ」 2002年フランス 主演:モニカ・ベルッチ)

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